第1章 満州国崩壊の序曲(11)

2005年06月18日 13:46

 牡丹江駅の静寂、修羅場の前触れ

 深夜に避難列車が到着したひと時間を除けば、10日の夕刻から翌朝にかけて静寂に包まれた牡丹江駅はなんだったのだろう。
 それが〝嵐の前の静けさ〟であり、牡丹江駅が修羅場と化す前触れであったとは知るよしもなかった。
 明け方から駅前広場で泣きわめく迷子の身を案じていたご婦人や、群衆の中の傍観者たちも、それが自分たちにすぐにも訪れる運命の予兆だと気づく人は、まだいなかったのではなかろうか。
 その翌12日の牡丹江駅の悲惨と戦慄に包まれた異様な光景は、前掲の『歴史の足跡』(朝日新聞 福沢卯介)と『闘わざる覆面軍』(毎日新聞 北崎学)に生々しく描写されている。
砲弾炸裂 12日の朝はからりと晴れた良い天気だった。私(福沢氏)たち一行百余名は、一団をなして牡丹江駅に向かった。
 私たちといれちがいに穆稜ぼくりょう)磨刀石まとうせき)あたりの戦場を脱出したひとたちが、公園を目指して歩いてきた。私たちは、
 「どうして牡丹江などに降りたのです。早く南へおさがりなさい。ここの運命も一両日です」
とすすめたが、
 「このひとたちはもう一歩も動けません。運命に一切を託して生きます」
と淋しく笑った。
 「とに角私たちはあの住宅を引揚げてきたのです。食糧も夜具もあります。一切を差上げますから使って下さい。そうして明朝早々、脱出して下さい」
 私たちはこう言って別れた。(『歴史の足跡』)
(写真は『戦記クラシック 満州国の最期』太平洋戦争研究会編、新人物往来社)

 駅頭は奥地からの避難民と乗り遅れた牡丹江の婦女子でごった返していた。
 ほとんどが無蓋貨車(むがいかしゃ)の列車で3本ならんでいた。
 ホームにはトランクやふとんが乱雑に投げ出され、異様な風景を呈していた。
 線路と線路のあいだに赤ん坊の死体がころがっている。
 死体は真あたらしい晴れ着を着ていた。
 ブリッジの裏でいましがた首をつった老人がかかえられて来た。
 駅長室には7、8人の迷子が泣き叫んでいた。
 「迷子になったのか、棄てたのか訪ねても来てくれない」と駅長は暗い顔をしていた。(『闘わざる覆面軍』)

旧駅

(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)


 講堂に難民の集団

 〈東満交戦地区郷軍ノ牡丹江地区転進並ビニ避難婦女子ノタメ校舎提供。生徒若干名ヲシテ救済援護ニ充ツ〉

 ぼくたち星輝中学の4人は、一夜を過ごした牡丹江駅を後にして学校に向かった。
 学校に隣接する清水公園を通り抜けると、学校側からこちらに向かって来る同級生の日高とぱったりあった。
 「これから新京(現長春)方面に疎開することになったので、学校に休学届けを出してきたところだ」と。
 彼の父の所属する部隊に撤収命令が出たのだと言う。
 牡丹江に住んでいたころ通学していた円明国民学校で、いちばん仲のよかった彼の陸軍官舎には2度ほど遊びに行ったことがある。
 牡丹江が避難するほど危険な状態にあるとは露ほども知らないぼくは「休学届け」とは少し大げさ過ぎないかと内心思ったが口にはしなかった。
 避難も一時的なものだろうから、またすぐ会えるという軽い気持ちで彼と別れた。(戦後、彼も無事内地に帰国しているが、その後会う機会がなく60余年が過ぎている)

市内地図

(牡丹江市街地図は『俘虜追想記』清水豊吉著より)
 
 校内は静かだった。生徒の姿はどこにも見あたらない。
 「授業はどうなっているんだろう?」
 2年生が代表で職員室へ入って行った。
 その間、ぼくらは人影のない1階の廊下を歩き、教室を一つひとつのぞいて回った。 廊下
 一番奥にある講堂まで来て、なにげなく中をのぞいて〝ハッ〟とした。
 まったく人の気配を感じさせなかった広い講堂の片隅に、20人ほどの人たちが身を寄せ合うようにして座っていた。
 男も女子どももみな、なにかに脅えたような目つきでこちらを見た。
 だれ一人、口をきこうとしない。
 昨夜の避難列車で牡丹江駅に下車した人たちなのだろうか。
 無蓋貨車でトンネルをくぐり抜けてきたのか、どの顔もすすけ、妙におどおどしている。
 これが日本人かと見まがった。
 きのうまで一等国民と自負し、尊大な態度をとっていた邦人たちとはまったく違っう。
 この人たちを不審の目で、いつまでも見ているのは気の毒に感じたので、ぼくたちは早々に講堂を出た。

 前掲の『闘わざる覆面軍』によると、
 10日の正午近く、前線からの避難列車がひっきりなしに牡丹江駅に到着していた。
 みな着の身着のままであった。
 綏芬河方面からの列車は進撃するソ連軍と追いつ追われつで脱出したものであった。
 東安方面からの列車は飛行機の掃射をくらって十数人が座ったまま即死していた。
 貨車の屋根を縫った無数の弾痕、着ている軍服がブドー色だったので、おかしいなと思ったら、ふき 出た血潮が、熱さで変色しているのだ。

第1章 満州国崩壊の序曲(12)

2005年06月23日 10:07

 拉古組みと別れ寮に戻る
 
 〈昼夜ヲ問ワズ、満鮮系不逞徒輩ノ蠢動著シキモノアリ〉

 校庭で事務職員の男が1人、黙々と書類の束を炎のなかにくべていた。
 夏の陽ざしのなかで書類のページが炎でめくられていく。
 めらめらと紙が燃え上がるさまを、しばらくぼう然と眺めていた。
 すると昨夜来の異変続きが頭の中を去来した。
 おぼろげながら、自分の身近にも事態の変化が忍び寄ろうとしている不吉な予感に襲われた。
 だが、その不安がどのような形で自分の前に表れてくるのか想像する力はなかった。
 「きょうは、授業はないそうだ」
 職員室から戻った2年生の報告を受けると、
 「これからどうしよう?」、迷い迷い学校を出た。
 歩いているうちに、斉藤が「家まで歩いて帰ろう」と言い出した。
 拉古ラコまでは山を一つ越えるとすぐで、以前に歩いて帰ったことがあるという。
 拉古組みの2年生と坂本もそれに同意した。
 海林ハイリンはそれより一駅向こうだ。
 歩いて帰るのは無理だろうから、ともかく元営林署の寮へもどってみることにした。
 拉古の3人とそこで別れたが、彼らが家に無事たどり着けたかどうか、その後の消息は知らない。
 山を越える途中、暴漢に襲われはしなかったろうか。
 あるいは、官舎に帰り着いたものの、すでに全員避難した後だった、ということもあり得る。家がハルピン近郊の平房だった同級生のSは、家に着くのが30分遅かったら、家族らの避難に間に合わなかったという。 


寮地図

(上の地図は『星輝中学校同窓会誌』、満尾文雄著「牡丹江時代の思い出」より)


 ソ機のスピードに驚嘆

 〈午後四時市内ニ爆撃並ビニ機銃掃射アリ、校舎、職員、生徒ニ異常ナシ〉

 急降下 寮に戻ると、室には家に帰れない国境付近の1年生が、まだ大勢残っていた。
 授業は中止で戦闘訓練もない。
 みな手持ちぶさたで、めいめい勝手なことをやって時間をつぶしていた。
 「牡丹江市の防衛につくことになった」
 と、木銃を手に意気込んでいる奴もいる。
 「あっ! 飛行機だ!」  
  だれかの叫び声で、みないっせいに窓際に駆け寄った。(右の写真は、ドイツ空軍の急降下爆撃機『20世紀の歴史(15)第二次世界大戦[上]』(平凡社)
〝キーン〟
 天井を圧するような爆音を残し、ソ連の戦闘機がアッという間に飛び去った。
 「あの金属音は、ドイツ映画で見た『急降下爆撃機』の爆音そっくりだ。あんな速い飛行機がソ連にあるわけがない。きっとドイツから分捕った戦闘機だろう」
 われわれは、お互いの顔を見合わせながらそう言い合った。
 牡丹江市の上空では、複葉の赤トンボ(練習機)すら見かけなくなって久しい。
 最新鋭の戦闘機のスピードがどんなものか、だれも見当がつかなかったが、ともかくソ連の技術力を低く評価したかった。
 とはいえ、あのソ連機の速さは、われわれを驚嘆させるに充分だった。
 『一九四五年 満洲進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』[徐焔(シユ・イェン)著、朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳]三五館)によると、
 当時のソ連軍の主力戦闘機ラー5型、ラー7型は時速650㌔以上。
 日本陸軍の主力戦闘機は飛燕型で時速590㌔、疾風型で624㌔である。
 ソ連機に比べ時速で劣るだけでなく、これらの新鋭機は満洲には配備されていなかった。

ソ機2     ソ機
(上のソビエト機は『[図解]世界の軍用機史 イラスト・解説=野原 茂』(グリーンアロー出版)

 

 夕方近くなって、市内の第二新市街に住む秀子叔母(父の妹)の家に寄ってみようと思い立った。
 玄関まで出ると、軍用トラックが1台横づけになっている。
 旧知の志田さんが同行の当番兵と一緒に自分の荷物を荷台に積み込んでいるところだった。
 2年ほど前、父の転勤で東寧から南に下った〝石門子〟に住んでいたころ、そこの国民学校の1級上に彼がいた。
 ぼくが在校生代表で送辞を、彼が卒業生代表で答辞を交わした間柄である。
 6年生は彼1人、5年生は2人いたが1人は女の子だったから必然的にそうなった。
 星輝中学に入学以来、お互い顔を合わす機会がなく、この時が初めてだった。
 どういうわけか、それまで学校や寮で、彼とすれ違うことすらなかったからである。
 彼の父君は石門子憲兵分所長だったころは准尉だったが、少尉に進級し牡丹江近辺に転属となっていたようだ。
 長男のわが息子のため、寮までトラックと当番兵を差し向けたのだろう。
 ぼくがトラックに近づくと、
 「徳広君! 何をぐずぐずしているんだ! 早く避難しないと、ここも危ないぜ!」
 いつになく緊迫した表情で、そう言い残すと、トラックの助手席にあわただしく乗り込んだ。
 彼を乗せたトラックは、何ものかに追われているかのようなスピードで走り去った。
 ぼくは呆然と、それを見送った。
 それが彼を見た最後の姿だった。
 後日談だが、彼の父はシベリアで11年間の抑留生活を終え、昭和31年暮れに広島県福山市に帰国している。
 そのことを中国地方の新聞が写真入りで大きく取り扱っていた。
 同紙によると、彼らの家族は避難の途中、暴民に襲われ、彼と母親、ぼくより1学年下だった妹、それに弟2人を含む全員が死亡したとあった。
 妻子と一緒に生活することができる日を唯一の励みに、厳しい抑留生活を耐えてきたのに、刑を終えて内地に復員してみると、心の支えであったその妻子はすでにこの世にいない。
 一体これから何に生活の張りを求めていけばよいのか、志田さんの父君の悲嘆にくれた談話が載っていた。

第1章 満州国崩壊の序曲(13)

2005年06月25日 10:09

 満航義勇飛行隊

 ソ連軍侵攻後も満州の大空を日本の飛行機が飛んでいた。
 元満州航空のパイロットだった下里猛(大正12年、1923年生まれ)著『満州航空最後の機長 空飛ぶ馭者』(並木書房)によると、
 ソ連軍満州侵攻前日の8月8日、下里氏と同僚のパイロットは新京からロッキード機を桂木斯(ヂャムス)に空輸し、その夜は同市の旅館に宿泊していた。
 翌朝、「今朝、ソ連機が突然空襲し、戦車部隊も国境を突破して進撃中だ!」と警察から知らされる。 隼
 満航の営業所員から「全員、飛行場へ集合」という桂木斯管区長の命令が伝達された。
 用意された会社のバスはフルスピードで飛行場に向かう。
 2階の乗務員室で、通信室から出てきた管区長は紙片を見ながら「君たちが持ってきたロッキードを直ちに新京に空輸せよという命令だ」
 前日、空輸してきたばかりのロッキードに乗り込み、多くの人々の激励と見送りを受けて出発する。
 まだ、この時点では敵の進撃はそんなに早いとは誰も考えていない。
 桂木斯管区の人たちは自分たちの撤退が、目前に迫っているとは誰も気づかなかった。
 むしろ、召集を受けたわれわれを心配して、女子社員まで出てきて手を振って励ましてくれた。
 2機は直ちに編隊を組んで進路を新京に向けた。
 来た時と違って、今度は索敵にも充分注意を払わなければならなかった。
 しかし、幸いなことに敵機と遭遇することもなく、無事に新京飛行場へ到着することができた。
 地上滑走ももどかしく格納庫まで機体を運び、機材係に引き渡すと、乗務員室へ駆け上がった。
 一刻の余裕もない中で義勇飛行隊は桂木斯、牡丹江の飛行場に残された社員救出作戦を開始した。
 救援機は桂木斯、牡丹江に疎開していた飛行機と新京、ハルピン管区の稼働可能なすべての機種を繰り出した。
 赤とんぼ その時、桂木斯飛行場に集結していた社員と家族は130人余りが不安におびえて救援をまっていた。
 救援機は松花江沿いに低空で桂木斯飛行場に侵入して着陸し、脱出計画通りに登乗者を乗せて直ちに離陸して、再び低空で松花江をさかのぼってハルピンへ行くのである。
 ハルピンで避難者を降ろして、再び桂木斯へ向かうピストン輸送をしたり、機種によっては新京まで直行するものもあった。
 ハルピンまでは約300㌔あまりであるから、AI機でも1時間、スーパーなら1時間半以上もかかる。
この作戦中、桂木斯飛行場では2度も敵機の銃撃を受けたが、いずれも退避して被害は僅少であった。  こうして幸運にも全員が桂木斯から脱出することができた。
 桂木斯救援作戦の最中に、1機未帰還という悲報が入った。
 満航隼機が双城堡付近で墜落炎上しているのを、帰還中の救援機が空中より発見したのである。
 大混乱の中では遺体の確認も真相究明もできないが、全員死亡は確実だろう。
 戦闘には無縁の女子どもの血潮まで満州の大地に流されたのである。

満州航空

(上の写真は『満州航空最後の機長 空飛ぶ馭者』並木書房)


ジャムス

(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)



 上海、8月11日の敗戦

  『堀田善衛 上海日記』によると、上海では、日本の敗戦は8月11日(土曜日)に来ていた。

 電車に乗ると、同盟の赤間氏が、「何だかとうとう来たようですね」と云う。氏は「未だ知りませんか?」  白日旗  「日本が降伏したと云ふんですよ」
 南京路は青天白日旗がずっと立ち並んでいる。
 「和平号外」なるものをポケットから持ち出して、みんなに配った。
 大意は「10日夜、東京のラジオ放送によれば、日本の天皇陛下は世界の平和を切に欲している」
なみいる日本人の僕らはみな暗い表情になった。
 この号外は、東京ラジオの英文短波とモスクワ電台の放送によるものらしかった。
 方々では爆竹が鳴り出した。
 ワァワァ云う声もしはじめた。
 戦闘帽に国防服、ゲートル姿の日本人たちは、何だか具合悪そうな表情で歩いている。

第1章 満州国崩壊の序曲(14)

2005年07月01日 11:40

 開戦3日目の牡丹江

 毎日新聞の北沢学氏は、開戦3日目(8月11日)の牡丹江の様子を『闘わざる覆面軍』の中で次のように記している。
 開戦第3日目、空襲警報の予告なしにソ連機が牡丹江を急襲した。前線との通信が途絶したので警報の予告ができないのだ。
 防空機器も応戦する飛行機もなかったので、ソ連機は悠々手ばなしで駅ちかくの住宅街を爆撃してあざ笑うようにひき揚げて行った。
 一般邦人はようやく浮足たって来た。
 興業銀行 市長はこれ以上市民を慰留することは不可能と知った。
 彼は独断で、邦人は婦女子にかぎり隣組単位で避難するよう勧告した。
 その夜省公署はごった返していた。
 開戦以来、牡丹江省公署に陣取って指揮していた五十子いらこ省長は沈痛なおももちで、
 「軍にだまされた。いまとなってはもう遅い。だが、関東軍のやつらはこんな間抜け共とはいまのいままで知らなかった」
 彼はいましがた軍の代表と激論して来たところだった。
 深更の2時頃、私は省公署を辞した。
 燈火管制下の市中はうるしを流したようにまっくらで猫の子一匹通っていなかった。
省公署の隣の女学校寄りから、
 「停まれ!」
 と誰何すいか する者がいる。あきらかに女の声だ。
 「日本人だ。君は誰だ?」
 物かげから白いものがすーっとちかづいて来た。
 よく見ると女学生らしかった。
 「今ごろ何をしているの?」
 「防衛についているのです」
 瞬間、私の胸にぐっとつきあげるものを感じた。
 「バカな、防衛もヘチマもあるものか、日本は負けているんだよ。早く家に帰るのだッ」
 「でも私寄宿舎にいるんです。家は東安トウアンですの」
 と細々にいうと、彼女は泣き出した。
 「なんでもいいから、あす早くみなで南にさがるんですよ」
 軍は自分らではこっそり退却していながら官民には日頃の防衛案通り、その部署につかせた責任を負おうとしない。
 私は支局に帰るなり、電話で女学校の責任者を呼び出した。
 相手はあきらかに当惑しているようすだった。
 「実は困っているんです。何しろ東満に一つの女学校なので、奥地の子弟もたくさん預かっているわけです。避難してくる近親のかたを待って引き渡すか(略)、ハルピンで待つか、新京で待つか、奉天か、という問題もあるんです。それにいちばん心配なのは4日ばかり前に奥地の開拓団に除草の勤労奉仕に出かけている組があるんですよ。その連中はどうなったか(略)。どうしたもんでしょう」
 私も急には返事が出来なかったが、
 「ともかくこの際は南にさがったがけんめいでしょう」と念をおした。(以上、『闘わざる覆面軍』より)

 恨みぞ深し〝汁粉・ぜんざい〟

 当時、牡丹江高等女学校の教諭であった清水豊吉氏は『俘虜追想記』で、
 私は8月11日、牡丹江高等女学校の宿直勤務中、最終巡回を終えて就寝しようとする11時半、
 「牡丹江守備隊に入隊せよ」
 との電話命令を受けた。牡丹江兵事部からの通報であった。
 私は受命のときから、寄宿舎がいたたまれないほど気になっていた。
 高女 東満国境情勢緊迫のため、帰省できない30名に近い生徒が残寮し、それに准看護婦の資格取得のため、陸軍病院に通うかなりの生徒が加わっていたからである。
 牡丹江高女は、当時、東満州ただ一校の高等女学校で、残寮する寮生は、東安トウアン東寧トウネイ綏芬河スイフンガ)など広範囲な国境地帯に駐留する軍人、軍属の子女がほとんどであった。
 太平路―駅前―虹雲橋―遠山大路をひた走り、(女学校の寮舎まで)4㌔余りをいっきに駈けつけた。
 (中略)どの室もことごとく押し入れは開け放たれ、寝具、衣類などはなく、雑然の度が過ぎている。
 満州人の略奪が閃いたとき、2列に向かいあう8個の机上の書架に、ひっそりと残される主を失った教科書とノートに疼きが湧いた。
 事務室の金庫ダイヤルは飛び、開け放たれている。
 つづく職員室は、書類箱、机の引き出しが散乱して足の踏みようさえない。
 校舎の2階を見回りさせた部下から、料理実習室に、
 「汁粉の準備がされたままの鍋が、調理台に放置されています」、との報告があった。
 きっと、寮生が母校に別れを告げる最後の会食を共にしようと、それを果たすゆとりもなく、駅に走らねばならなかったからであろうか。(以上、『俘虜追想記』より。牡高女校舎の写真も)

 牡高女の〝汁粉〟の件だが、星輝寮でも同様なことがあったらしい。
 わが校の学徒隊は、牡丹江死守のため星輝寮に籠城ろうじょうし、ソ連軍と最期まで一戦を図る任を帯びていた。
 ところが8月12日(日曜日)15時30分、省次長より牡丹江地区強制引き揚げの命令が下される。
 学校長以下、教員、残寮生徒たちは非常呼集がかかり、急きょ新京地区への転進準備を整え、16時に学校を出発した。
 その間のことである。
 軍派遣教官のN軍曹(国語担当、東京帝大卒)らは、寮で〝ぜんざい〟作りに取りかかっていた。そこへ思いもよらぬ転進命令だ。
 先生たちは、作りかけのぜんざいに名残を惜しみながら出発せざるをえなかった。
 同窓会でのN先生の思い出話だが、ソ連抑留中は飢餓状態のなかで、あのとき食べそこなった〝ぜんざい〟のことが思い出され、残念でならなかったという。

第1章 満州国崩壊の序曲(15)

2005年07月08日 21:48

 磨刀石マトウセキ)に散華した石頭セキトウ)予備士官生たち

 八月十二日(日曜日)

 <十五時三十分、敵戦車二輌、掖河(エキカ)(牡丹江市の東方五㌔)地区進入、機砲五十門磨刀石マトウセキ)進出ノ報伝達サル〉

 第二新市街の秀子(父の妹)叔母の家で一夜を過ごした翌朝、郵政管理局に勤めていた叔母の夫、忠利ただとし)ら官舎の男たちは、火炎ビン用にサイダーまたはビールの空きびん2本と木銃を携行し、牡丹江市防衛に駆り出されて行った。
しんしがい  空きビンはガソリンを詰めて火炎ビンとし、対戦車攻撃用兵器として使うためのもの。昭和14年5月から9月にかけて「ノモンハン事件」の戦場で使われた原始的な兵器である。
 ノモンハンではソ連軍の戦車に対し、日本軍の対戦車砲はまったく役に立たない。そこで火器の貧しい日本側の一兵士が考え出したのが火炎ビンだった。
 当時のソ連の戦車はガソリンエンジンで、機関室は作戦行動中手がつけられないほど熱くなる。そこへ火炎ビンを投げつけると、たった1発でソ連戦車は炎上した。(『第二次大戦 殺人兵器』小橋良夫著、銀河出版)
 しかし、今は6年前と違いディーゼルエンジンを積載したT34型戦車が相手の近代戦である。火炎ビンごときで敵戦車に立ち向かっていくなど自殺行為に等しい。
 それを証明するのが、ソ満国境の磨刀石という知られざる戦場で散華していった学徒兵たちである。
侵攻するソ連軍 その学徒兵とは、関東軍石頭セキトウ)予備士官学校生徒(陸軍甲種幹部候補生)のことである。
 彼らの任務は、軍主力が撤退し後方に防御線を築きあげるまでの抵抗戦であり、また国境付近から避難して来る在留邦人が無事南下するまで、急追するソ連軍を阻止する身代わりの防波堤だった。
 その戦いは、大挙して南下して来たソ連赤軍の大機甲軍団に銃剣と手榴弾、そして手づくりの急造爆雷を抱えて敵戦車に体当たりで挑む死闘だった。
 ――肉弾学徒候補生が、爆雷を抱え自爆攻撃を加えるが敵戦車はビクともしない。
 停止した敵戦車は砲塔の下側から火炎放射機を噴射し、肉攻豪(タコつぼ)に潜む候補生をその焔と、歩兵のマンドリン銃(自動小銃)で掃討していった。
 ――平均年齢弱冠20歳の候補生920余名が戦場に出陣し、わずか2日間の戦闘でその大半が散華したのである。(南雅也著『われは銃火にまた死なず』泰流社)
(ソ連軍の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋研究会編 新人物往来社)


 関東軍参謀たちの論理

 それはともかく、ぼくは同級生の日高や石門子時代の志田さんら軍部の家族が避難したことを叔父や叔母に話していなかったようだ。
 後々の話だが、叔父は「君からそのことを聞いていたら、抗議して牡丹江防衛につくなどしなかったのに」と、悔しがっていた。
 いま思えば、あの志田さんの緊迫した表情から、深刻な状況がさし迫っていることを察知していなければならなかったのだ。
 ぼくには関東軍がよもや敗退しているなど想像できず、それ以上に軍が一般邦人を放置して撤退するなど思いも及ばないことだった。
 当時、関東軍作戦班長だった草地貞吾大佐は、『関東軍作戦参謀 草地貞吾回想録』(扶桑書房)の中で次のように述べている。
  ソ連参戦にあたっては、関東軍は作戦第一主義だった。(中略)なぜに居留民よりも速やかに後退したのか、それはただ一つ、作戦任務の要請であったと答えるばかりである。
 また、軍の家族を一般市民よりなぜ優先させたかについて、
草地 草地大佐は8月11日、新京で原善四郎中佐参謀から、「軍の家族が第1列車に乗り込み、本早朝出発しました」と報告を受ける。
 大佐は、「なぜ、一般市民の家族を優先しなかったのだ」と難詰すると、
 「まず一般市民を送り出したいものと、満州国政府側、居留民団関係に要求連絡したんですが、永年住みついた邦人というものはなかなか腰が重く、どうしても今晩などに乗車することはできないという回答――軍は仕方なく緊急集合容易な軍人、軍属の家族を輸送し、準備できるにしたがって一般市民や国策会社の社員等を循環輸送するようにした」  と、原中佐の答えが返ってきた。
(草地大佐の写真は『関東軍総司令部』楳本捨三著、経済往来社)


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