第1章 満州国崩壊の序曲(6)

2005年05月26日 12:57

 たった1日だけの自宅通学

 八月十日(金曜日)

 〈敵機上空偵察頻繁、東満侵襲、ソ軍国境突破、綏陽、東安地区侵入ノ報至ル〉

 この日の朝、中学校入学以来、初の自宅通学に弾む心で家を出た。
 久しぶりに満腹感に満たされ、肩からたすき掛けにした雑嚢(ざつのう)は、いつもより重く感じた。
 左右にゆすっても、中身が片寄ることのない母のつくった弁当が入っているからだ。
 おかずは寮の冷凍物の腐ったような魚とヒジキの煮付けとは違う。
 ハルピン方面から牡丹江に向かう浜綏(ヒンスイ)線の運航は平常通りだった。
 海林駅から乗った列車の中も、下車した牡丹江駅の周辺の雰囲気も、いつもと変わらず平穏であった。
 だが、そう感じたのは〝知らぬが仏〟だったせいかもしれない。
 そして、これが中学校入学以来、最初で最後の自宅通学になろうとは。

東満地図

 すでに東満国境では、ソ連軍が綏芬河スイフンガ)を突破し、牡丹江市まで直線距離で100キロ前後の綏陽(スイヨウ)に前日夕刻には侵入していたのだ。

 当時の現地のなまなましい体験を柳田昌男氏が、『ムーリン河 ソ満国境・一等兵の記録』(ミネルヴァ書房)で詳細に記述している。
 著者の柳田氏は満州中央銀行の行員で、すでに30歳を超えた妻帯者だった。だが、昭和19年3月に在満召集され、東満州国境に近い綏陽(スイヨウ)気象班に配属されていた。 同書の一部を抜粋させてもらう。

 8月8日、夕刻前より降っていた雨は雷鳴をまじえ、はげしくなる。
 定時観測の午後10時になったので、露場(気象関係の観測機器の設置場所)に出る。正面図
国境の綏芬河スイフンガ)街の方向に、しきりに雷光がする。
 雷鳴にしては変わった「ドン」という音がきこえ、心なしか空も薄赤く感じられる。
 T兵長に「国境のほうで大砲らしい音がする」と報告したところ、「馬鹿を言うな、雷のまちがいだ」と耳もかしてくれない。
 また屋上にのぼり、国境方面をじっと観望する。まちがいなく大砲の音だとわかる。
 班長のY軍曹は、第五軍司令部と電話で話している。それによると「ソ連軍の攻撃は単なる国境の紛争か、あるいは全面戦争かは意図不明、気象班はしばらく現在地で状況を監視し、その後の動向を逐次報告せよ」
 夜半過ぎ、国境の監視所、鹿鳴台ろくめいだい)観月台かんげつだい)に分遣されている気象班員から「敵の攻撃を受けて応戦中」との連絡があるが、途中電話が切れたので事態がいよいよ急迫してきたことがわかる。独立守備隊
 翌8月9日、午前9時頃、観月台に分遣されていたK伍長が帰って来る。
 「8日夜10時すぎ、不意に敵の砲撃を受けた。味方の火器は軽機関銃と小銃。全員善戦奮闘したが、しだいに敵砲火に圧迫され涙をのんで後退した」と報告。
 敵爆撃機が編隊をなして続々と牡丹江方面へ向かって飛んでいく。高度は千メートルもない。
 爆弾一つ落とすでなく、完全になめきった様子で悠々と飛んでいく。
 綏陽街にはたいした兵力・火力がないことを知っての行動だと思う。

 午後2時ごろ、Y班長より「露場の機器類をいっさい破壊せよ」との命令がでる。
 破壊が終わって班内にもどり休憩しているところへ、本部から連絡将校が飛び込んできて「午後3時に最後のトラックがでる。気象班も、これに乗って牡丹江市へ後退せよ」 すいよう トラックは、一路綏陽駅に向かって進む。
 駅で見た光景は意外な場面である。
 満鉄社旗を中心にして日本人をはじめ満人を含む駅職員約20人ばかりが満鉄社歌を整然と合唱。
終わると、万歳三唱して各人が駅長の指示に従って職場に散っていく。
 駅員に状況をきくと「線路はムーリン地区で爆破されて運航していない。正午ごろ、多数の日本人を乗せて出発した汽車が果たして無事に牡丹江市につくかどうかわからない」と心細いことをいう。
 国境の綏芬河からは早朝1本の汽車が到着したのみで、その後はつかないし、また通信も駄目とのこと。
 将校や班長は日系職員に「もうこうなったらやむを得ない。われわれのトラックで一緒に後退しよう」としきりに勧告しているが、彼らは「任務のためここを死守する」といって頑として聞き入れない。
 私はそこにいた年齢17.8位の少年に「兵隊さんと一緒に牡丹江市に行こう」と話かけたところ赤銅の顔に笑顔を浮かべて「線路が復旧したらまた汽車が通るからそれまでがんばる」と健気な返事をする。
 炊事班の上等兵がこの少年に羊かんを贈ると、彼は礼儀正しく敬礼して、喜んで受け取るその笑顔のあどけなさ、一同思わずニッコリする。
 おりしも機銃の音が、旧司令部の方角でした。
 トラックは直ちに速度を上げて西走する。
 ふと砲声に驚いて振りかえると、敵の戦車が満州中央銀行綏陽支店の前を進んでいる。直線距離にして千メートル。   

すい駅

 (別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社)

 

 


第1章 満州国崩壊の序曲(7)

2005年05月28日 19:30

  むなしい肉迫訓練
 
 <午前中 前日ノ任務ニ従ヒ服務、午後戦闘訓練並ビニ銃剣術訓練実施>
 学校では、ぼくたち1年生はソ連軍戦車に対する肉迫攻撃の訓練を受けた。
 生徒が所持する木銃では戦にならない。
 仮に、小銃を手わされたとしても、扱い方を教わっていない。
 非常事態発生時の即戦力としての用兵は、せいぜい地雷を抱えて敵戦車に飛び込む肉薄攻撃くらいしか考えつかないのであろう。
 記憶はあいまいだが、訓練は次のようでなかったかと思う。
 破甲爆雷に模した板切れを胸にかかえ、粘土のブロックで作られた模造戦車(大八車だったかもしれない)に向かって走り、一定の距離まで近づくと地面に伏せる。
 そこから腹ばいになり匍匐ほふく)前進する。

地雷

[左の写真は「吸着爆雷」]地雷の4すみに磁石がつけられ、上を通過する戦車の底に吸いつき爆発する。兵士がタコツボを掘って中にひそみ、通過する戦車の下にもぐりこんで、これを戦車の腹に吸いつけたが、兵士の生還は期しがたく、まったくの特攻だった。


 地雷には磁石がついていると想定して、戦車の下腹に吸着させて逃げ去る。
 こんなところでなかったか。
 地雷が爆発すると自分の身体も、こっぱ微塵みじん)に吹っ飛んでしまうなど毛頭浮かばない。
 頭の中はバーチャルの世界だから、板切れは板切れでしかなく、緊張感も悲壮感もわかないまま訓練にはげんでいた。
 訓練を見守っている陸軍少尉の軍事教官は、直立の姿勢で少し股を開き、軍刀のこじりを地面に突き立て、軍刀の柄の上に両手を乗せた姿勢でただ黙って立っていた。
 ときどき、教官の顔をうかがってみるが全く無表情。
 子どもの兵隊ごっこのような訓練など無駄だと、気乗りしないのか心ここにあらずといった風だった。
 いつもの教練の時のような厳しさがうかがえず、気合を入れられることもなかった。
 実際のところ、関東軍造兵廠が製造したソ軍戦車に対する肉迫攻撃用の急造地雷は、爆破試験の結果によると、ほとんど効果がなかったそうだ。
 全軍の志気に影響をおよぼすという理由で、そのことは厳秘に付されていたという。
 極秘情報であるほど、親しい仲間同士の間に自然と伝播していくのが常。
 教官殿も先刻ご承知であったかもしれぬ。  たいまこう  この地雷による肉薄攻撃の虚しさは、石頭セキトウ)陸軍予備士官学校生徒だった南雅也氏の『われは銃火に まだ死なず』(泰流社)に詳しい。
 牡丹江から東方20キロの磨刀石マトウセキ)で、8月12日から13日にかけての凄惨な戦いぶりを一部抄録すると、
 時速約20キロと推定される敵戦車は、穆稜ムーリン)からの道路上に黒々とひしめいて接近してくる。
 まるで黒い岩の塊のような戦車、あれがスターリン戦車というのか。
 また一瞬ものすごい閃光がひらめくと、黒煙が戦車におおいかぶさる。
 (やった、やったゾッ)激しく動悸が打ち鳴る。
 またまた小さな体が、パラパラッと飛び出した。四角い弾薬の箱を胸に抱きしめた戦友の姿(学徒候補生)。
 一瞬、天地の避けるような轟音が響き、黒煙の中に戦車が停止するのが見えた。
 だが何ということだろう。擱挫かくざ)したと思われた敵戦車が、再びグワッグワッと動き始めた。
最強の威力をもつ戦車であった。

 磨刀石の肉攻陣地を蹂躙じゅうりん)し、各地陣地・機関銃座を壊滅させたソ連機甲部隊のT34戦車は、俗に〝スターリン戦車〟の異名を持った当時世界 最強の威力を誇る戦車である。

戦車

 [ソ連軍のT34型戦車『<世界の>第二次大戦殺人兵器 写真版』(小橋良夫著)]

第1章 満州国崩壊の序曲(8)

2005年06月04日 15:10

  嵐の前の牡丹江駅

<過クル六月以降、開拓地ニアリテ増産ニ挺身シ来レル、二、三年学徒全員無事責務ヲ完了シ、前夜會(八日夜)、帰牡(牡丹江)シ得タルハ蓋シ神意ニヨルモノト言ウベシ>

 8月10日、学校を終え帰途につくと、帰路が同じ浜綏(ヒンスイ)線の斉藤ら3人と一緒になった。
 同級生の斉藤に坂本と勤労動員帰りの2年生の3人は、牡丹江から一駅先の拉古(ラコ)の官舎から通っていた。
 駅に着くと、どうしたことか駅舎の中は閑散としていた。
 改札口に駅員も立っていなければ、周囲に乗降客の姿も全く見当たらない。
 朝の登校時とはうって変った待合室のようすに、まるでキツネにつままれたような心地がした。
 切符売り場の窓口で尋ねると、
 「ハルピン方面行きの列車は不通で、次の列車はいつ到着するか、いまのところ全く分からない」
 と、頼りない返事。
 駅員の言を確かめるためではないが、改札口からプラットホームを望んでみた。
 牡丹江駅は東満州の交通の要衝(ようしょう)である。
 綏芬河(スイフンガ)虎林(コリン)東寧(トウネイ)といった東満国境の街々は、鉄道路線で牡丹江駅と結節している。 銀座  その3方面の路線が入り組む広々とした構内のどこを見回しても、列車の姿形もなければ人影を見つけることもできない。
 牡丹江駅一帯が静寂に包まれ、時間が静止しているかのような錯覚にとらわれた。
 いつ来るともわからない列車を、待合室で待っていても仕方ない。
 だれ言うことなく、駅前付近や牡丹江銀座などをうろついて時間をつぶすことに意見は一致した。
 市内の様子はいつもと変わらず平静を保っているようにみえたが、心なしか人影は少なく感じられた。
 この日、学校では対ソ戦に備えて軍事教官による対戦車肉迫攻撃訓練があったが、前線の戦況については何ひとつ聞かされていない。
 「無敵関東軍の精鋭百万」を信じて疑わないぼくたちは、いまごろ前線ではソ連軍を撃退しているに違いないと想像していた。
 このような現状認識の甘さは、ぼくたちだけではなかったようだ。

 当時、牡丹江高等女学校の教諭であった清水豊吉氏の手記『俘虜追想記』(北見文化連盟発行)から、その日の模様を一部引用させてもらう。
 市内も官舎街もあくまで平静で、危機切迫は全く感じられない。
 皇軍を信じきっている私(清水氏)は、敗戦に至ろうなど、もちろん夢想さえしていなかった。
 私は8月10日、銀座通りの北満書店に出向いた。午後2時頃だったろうか。
 かねて顔見知りの店員が、
 「先生、今朝早く、綏芬河スイフンガ)方面の開拓団200名ほどが駅に降り、いま昭慶しょうけい)小学校に避難しているそうです」
 (略)太平路を進み、駅前に至って、異様にざわめく広場の光景に目を射竦いすくめ)られた。
 降車直後らしい300名に余るであろう開拓団の避難民が広場をほぼ埋めていたからである。憲兵リュックサックを荷ない、雑嚢(ざつのう)(肩から掛ける布製のかばん)をつり、持てる限りであろう大ぶりな風呂敷包みを手に下げている。
  女性は、モンペ姿に乳児を背負い、両手に幼児をつれるものが多い。
 壮年の男子は全く見当たらない。
 この一団を、数名の憲兵と20名ほどの軍装する兵士が取り囲んでいる。
 通りがかりの人が、泣き止まぬ幼児を背から降ろし、乳房を含ませようとする母親に歩み寄りそっと声をかけた。すると
 「誰に許可を受けて話をした」
 横合いから長い下士官刀を持った憲兵軍曹に激しく突き飛ばされた。
  (略)最初に牡丹江駅に到着した避難列車は東寧方面からで、軍家族、満鉄家族だったと言う。
 牡丹江市民が避難民に接触すると、ソ連軍の進撃の状況を確認し、動揺を来たしては、との軍部の判断からだろう。

(憲兵軍曹のイラストは『図解 日本陸軍歩兵』中西立太[画]並木書房)

 ぼくたちが学校を終え牡丹江駅に着いたのは3時半か4時ごろのはずだ。
だが、その時間帯には清水氏が目撃した避難民の集団だけではなく、その痕跡すらうかがえなかった。
 ぼくたちは、ちょうど電車が通り過ぎた後の踏切を渡っていたようなもの。
わずかの時間のずれで、大きな異変を見逃していたのである。

開拓団

(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

 

 

第1章 満州国崩壊の序曲(9)

2005年06月08日 21:11

 不通の列車を待ちわびる

 <敵機上空偵察頻繁、東満侵襲、ソ軍国境突破、綏陽(スイヨウ)東安地区侵入ノ報至ル>

 えきまえ 駅前付近で適当に時間をつぶして駅に戻ると、相変わらず列車は不通で、いつ来るかわからないと言う。
 われわれはあきらめず、また時間つぶしにでかける。
 そうしている間に列車が入り発車してしまっていてはと気が気でない。だが、駅に戻ると結果は同じ。こんなことを2、3回繰り返しただろうか。
 寮にもどれば自分の寝具はそのままだから、適当にあきらめて寮に戻ればよいのだが、4人とも家に帰ることしか念頭になかった。
 すっかり疲れ果てて駅に戻ると、改札口の前で紳士風の中国人が新聞紙を床に敷き、手提げカバンを胸に抱きかかえ、1人ぽつんと座り込んでいた。
ぎんれいがい この中国人は、ふだん見かける〝満人〟(当時の日本人は満洲に居住する中国人を蔑視(べっし)を込めてそう呼んでいた)とは違い、身なりもそうだが、ある種の風格と気品が備わっていた。
 職業は見当つかないが、満人の中では裕福な知識階級に属していることは明らかだ。
 歩き疲れていたわれわれも彼にならって、その後に並び床に尻を下ろした。
 ぼくは戦闘帽を脱ぎ、雑嚢(ざつのう)を肩にかけたまま膝をかかえ、うずくまった。

 〈軍関係者並ビニ満鉄社員子弟ニシテ父兄同伴疎開願出者ニ対シ之ヲ許容、併セテ南満地区父兄居住ノ生徒ニ緊急帰省手配〉

 ぼくたちは、学校で上記のような通達がでていたことを知らなかった。だが、この日の牡丹江駅の状況から判断すると、南満地区の生徒が独力で自宅に帰るのは容易ではなかったのではなかろうか。
 
 『闘わざる覆面軍』(毎日新聞、北崎学著)によると、
 開戦第2日(10日)を迎えた牡丹江は、まだ危機が迫ったような感じを与えていない。
 しかし、正午近くになると、一部に動揺の色が見えだした。軍が命令でその家族を南方へ避難させだしたからだ。
 軍の家族の引揚に刺激されて、こんどは満鉄がお手のものの列車を仕立てて家族の引揚をはじめた。  この日ついに最後の根こそぎ動員が行われた。男という男はほとんど招集されて聖林せいりん) 小学校にカン詰めにされた。

 深夜の駅に避難列車

 その夜の牡丹江駅一帯は、ソ連機の空襲に備えて灯火管制がしかれていた。
 長方形に横たわった一部2階建ての駅舎は、夜来からの激しい雨で漆黒(しっこく)の闇と、静寂(せいじゃく)につつまれていた。
 白壁の外観は雨でくすみ、駅舎全体が黒ずんで見えたに違いない。
 改札口の前に座り込み、深夜になっても来ない列車を待ちわびているうちに、ぼくはひざ小僧を抱えたままうたた寝していた。  戦車部隊
 すると突如、
 「お母ちゃん! おかあちゃん!」  子どもの張り裂けるような泣き声  「○○ちゃん! ○○ちゃん!」  母親の半狂乱に近い叫び声。
 絶叫とも叫喚とも悲鳴とも形容しがたい喧騒(けんそう)が、暗黒の駅構内を飛び交い、闇夜を引きさいた
 満州東部の国境方面から、日本人の避難民を満載した列車が、ソ連軍の攻撃を逃れ、命からがら牡丹江駅にたどり着いたのだろう。
(写真は『戦記クラシック 満州国の最期』太平洋戦争研究会編、新人物往来社)

 おそらく、15、6両編成の無蓋貨車にすし詰めにされた千人を超える老幼婦女子が、暗闇のプラットホームにあふれ出て大混乱に陥っていたに違いない。
 うたた寝していたぼくは、それをどこか遠くの出来事のように夢うつつの中で聞いていた。
 学校での肉迫攻撃訓練や列車待ちなどの疲れで、斉藤らも同じように睡魔に襲われていたのだろう。
 だれ一人、プラットホームの方まで確かめに行くようすはなかった。
 夢うつつのなかで、どれほど時間が過ぎただろうか。
 それまで闇の中を飛び交っていた叫喚やどよめきが、いつしか潮を引いたように消え去っていた。
 すべてが夜のとばりにつつまれた構内は、またもとの静寂に戻った。
 沛然(はいぜん)たる雨音を残して――。

第1章 満州国崩壊の序曲(10)

2005年06月16日 11:01

 駅頭で泣きわめく幼児

 八月十一日(土曜日)

 ぼくたち中学生4人は、あてもない列車を待ちわびたあげく、とうとう牡丹江駅で一夜を明かしてしまった。
 空が白けるころにはすでに雨は上がっていた。
 改札口の一番前で手提げカバンをかかえて座り込んでいた中国人の姿は見あたらない。
 われわれがうたた寝しているうちに、列車をあきらめ駅舎を去ったのだろう。
 駅頭に出ると、前の広場には昨夜の雨で、あちこちに水溜りができていた。
 その広場の一カ所に円い人だかりができていて、なんとなく騒ぞうしい。
 そばへ近づいてみると、人だかりの中心には下半身はだかでチンポコを出したままの2、3歳くらいの幼児が、
 「おカアちゃん! おカアちゃん!」
 声をからして泣きわめいていた。
 両手の甲を目にこすりつけて泣くものだから、そのまわりは涙と手の汚れで黒ずんでいた。
 昨夜、国境方面から避難列車で母親といっしょに逃れてきた男の子に違いない。
 長時間、無蓋貨車(むがいかしゃ)に詰め込まれての逃避行だ。
 千人以上の老人と婦女子の集団は、駅に着くと同時に生理現象などでホームにあふれ出たのだろう。 勝手を知らない暗闇の中で用を足しているうちに、もみくちゃにされ母親とはぐれてしまったに違いない。  人垣の中から、なだめすかすようにして、にぎりめしを差し出す人や、そのころでは簡単に手に入らなくなったキャラメルを二、三粒手に持たそうとする奥さん風の女性もいた。
 が、男の子はイヤイヤをするばかりで目もくれず、いっそう激しく泣きわめいた。
 事情を聞こうとしていた周りの人たちも考えあぐね、手をこまねいていた。
 ぼくたちも人だかりの後ろで、それを傍観ぼうかんしていた。

牡丹江駅ほか

(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社)


 忘れ得ぬ〝中国人紳士〟
 
 泣きわめく幼児に気をとられていると、
 「学校に遅れるぞ!」
 クリー 2年生にうながされた。
 8時50分の始業時間に間に合わなくなる。
 母が作ってくれた弁当をきのうの昼に食べて以来、今朝までなにひとつ口にしていなかったが不思議と空腹も、のどの渇きも覚えなかった。
 昨日からの異常続きで、気持ちが高ぶっていたせいだろうか。
 それとはまったく別次元の記憶だが、60数年の歳月を経たいまなお、ぼくの脳裏に想い浮かぶ場景がある。
 いつの間にか立ち去っていた中国人紳士のことだ。
 彼とは、言葉のひとつも交わしたわけではない、顔も正面から合わしていないから容ぼうもはっきりしない。
 服装も国民服だったか中国服だったか、それすらおぼろげである。
 鮮明なのは手提げカバンを胸にかかえ、ひとりぽつんと尻を下ろしていた姿だけ。
 それが不思議に、ぼくにとっていまも「忘れ得ない人」になっている。  
[上の写真は苦力たち『満洲慕情 全満洲写真集 <補巻>』満史会編(謙光社)]
 ぼくらが普段見かける満人といえば、苦力クーリーと呼ばれる肉体労働者や荷役夫ら貧困階層だった。
 そのほかでは洋車ヤンチョ(人力車)や馬車マーチョの車夫か商人くらい。  また、道端には物乞いをする乞食が目立って多かった。
 彼らは、すぐ地べたに座り込み、だれかれなく声高にしゃべり、ところかまわず手鼻をかみ、たんつばを吐き散らす。
 近寄ればニンニク臭が入り混じった異様な体臭が鼻をつく。
 日本人から見れば不潔で不衛生極まりない人種だった。
 そうした彼らの民度の低さを見て、当時の日本人が「四等国民」とさげすむのは人間感情として無理からぬところではあった。
 ぼくの「忘れ得ぬ人」は一目瞭然、これらの満人たちと階層の違いは明白。
 わずか一時、すれ違っただけの彼の印象が、ぼくの心に深く残っている。
 
洋車     馬車

[牡丹江駅前にて。洋車と馬車『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集』(晶文社)]



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