第9部 技能者養成所(6)

2008年02月20日 12:56

 機関車の仕上工に配属さる

 3カ月の試用期間中に、職場と職種を決めるためのさまざま適性検査が行われた。
簡単な一ケタの足し算を左端から繰り返す「内田クレペリン検査」。
 1?ほどの細長い鉄板の真ん中に、目測で針を合わすテストなど。針は小さなハンドルを回して動かすようになっていた。
 さらに肺活量や握力、背筋力などの測定などなどである。
 配属は、その結果で決まるのだが、一応、生徒にも各自の志望を提出させられた。
 職場の選択といっても、通りいっぺんの工場見学では、決めてとなる判断材料はないに等しい。
 機関車、ブレーキ、製缶、鋳造、鍛造など各工場内を見て回ったものの、どの職場も今風に言うと3K(危険、汚い、きつい)である。
  職種は機械工、仕上工、溶接工、木型工など職名を挙げられてもピンとこないし、自分がどの職種に適性があるのか、かいもく見当もつかない。
 アドバイスしてくれる相手を、探しようもない。
 われわれにとって、これは難問で苦渋の選択であった。
 思い悩んだ末、わたしは機関車工場の仕上工を第1志望、機械工を第2志望とした。
根拠は、機関車の仕上げは最終の組立作業に携わるのだろうと勝手に想像し、それなら少しは面白かろうとういう程度のことだ。
 機械工の希望者は多いだろうと予想し、第2に避けた。
 発表の結果、機関車工場では機械工が4人、仕上工も同じく4人が配属された。
 わたしは第1志望どおりになった。
 同じ仕上工に決まったKは、第1志望は機械工だったと言うから、わたしの予想は当たっていたようだ。
 全員の配属先の発表を終えたあと、担任の教師が言うには
 「この中に、どこにも配属するところがなく、困ったのが1人いた」
 わたしは肺活量と握力が弱く、やり直しをさせられた。
 肋膜炎の後遺症と、開墾地のクワ振りで手首を痛めていたせいで、2回目の測定値も同じだった。
  困った1人とは、わたしのことかと思ったが、担任の口ぶりから察すると、どうもそうではないようだった。
 憧れるような職場は皆無とだったが、誰もが敬遠したがる工場だけはハッキリ分かっていた。
 皆が嫌がっている工場に配属された連中の心中は察するにあまりあるが、その中の1人は、たちまち不満をぶちまけて、あっさり養成所を去っていった。
 それから4年後。
 Kが、名古屋製作所で航空機事業(米極東空軍機のオーバーホール)が再開され、組合で希望者を募っているという情報を持ってきた。
 元軍国少年のわたしだ、航空機と聞けば大いに心が動く。
 もう1人のSも乗ってきたので、仕上工3人連れ立って名古屋製作所への転勤を願い許可された。
 仕上工で1人残ったYも、その後、神戸造船所へ転勤している。
 機関車の機械工では、その前に2人が会社を辞めていた。
 後に弁護士になった垣内と、文学少年の菊地である。
 菊地は養成所を卒業すると同時だが、辞めることを事前に知っていたのは垣内だけのようだった。
 身長が同じく小さいこともあってか、彼とは気が合い、海水浴に誘われたこともある。
 その時、わたしの中学校の校長が、生徒に三国志を読むことをすすめた、と話すと一笑された。
 彼の学校の先生に言わせれば、そんなものは文学ではないと言う。
 芥川だとか漱石だとか川端など日本人のほか、外国のトルストイやモーパッサンなどを挙げ、岩波文庫を読むよう、わたしを啓蒙した。
 三原市の中学校出身と、片田舎の中学出身とでは文学に関する知識に格段の差があった。
 菊地は以前から、給仕でもいいから新聞社か出版社で働きたい、という強い願望を持っていることは知っていた。
 数学に弱い彼が、養成工3年の中間試験のときだったか、白紙の答案を出していた。
 すでに会社を辞める決意をしていたのだろう。
 それから十数年後、たまたま彼の消息を知り、神戸で一緒に飲んだことがある。
 神戸の鉄工会社で、営業マンになっていた。
 誘われたのは、彼が気安い取引先の接待につかうような気軽な飲み屋だった。
 あれほど熱っぽく語っていた文学の話は、最後に別れるまで、彼の口からこぼれ落ちることはなかった。
(上の写真3枚は『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版)


第9部 技能者養成所(7)

2008年02月27日 15:40

 英語教師と月1回の洋画鑑賞

  英語教師の計らいで毎月1回、学校から映画鑑賞に出かけた。
 最低の賃金ながら給料は貰えたから、入場料は各自の負担である。
 映画は午後からと決まっていたが、授業は午後4時まである。
 だから、英語以外の授業を犠牲にしなければならない。
 学校側には、どうやって許可を得ていたのだろう。
 映画は洋画に限られていたから、英語学習の一環という名目でもつけていたのだろうか。
  後年、担任の教師から聞いた話によると、校長らは生徒を映画に連れて行く英語教師の行動を、あまり好ましく思っていなかったという。
 そのせいだろう、楽しい映画鑑賞も前期だけで、後期に入るとなくなった。
 映画館に出かける前に、教室で英語教師から一通りの映画解説があった。
 きょう観にいく、アメリカ映画『哀愁』の原題は『ウォータールー橋』。
 それを邦訳では“哀愁”としている。
 原題に比べ、こちらの邦題の方がはるかに素晴らしい。
 日本人訳者の訳が、いかに優れているかなどを力説した。
 その時は、そんなものかと思う程度だったが、『哀愁』の甘美な悲恋物語に橋の題名では、ちょっと素っ気ない気がするのも確かだ。 
(写真は『世界映画名作全史―戦後編―』猪俣勝人著、現代教養文庫)

 イタリア映画の『自転車泥棒』(監督ヴィットリオ・デ・シーカ)では、主演の男優(ランベルトー・マッジョラーニ)は映画にはまったく素人の機械工で、撮影を終えると映画で演じた主人公と同じように失業者になった、といったエピソードも付け加えた。
 ソ連の『シベリア物語』は、はじめて見るカラー映画だった。
 そのほか『心の旅路』や『ジキル博士とハイド氏』なども。
 『ジキル博士』では、イギリスのロンドンにハイドパークという公園のあることを知った。
 いくつか観賞した映画の中で、一番心に残っているのは『哀愁』である。
 ストーリーは、1914年の第一次大戦時、英軍陸軍大尉のローイ・クローニン(ロバート・テイラー)と、バレー・ダンサーのマイラ・レスター(ヴィヴィアン・リー)の2人が、ウォータールー橋で偶然出会ったのが奇縁だ。
 だが、ローイは彼女と結婚の約束するが間に合わないまま戦地へ。
 2人はその後再会するが、運命のいたずらが待ち受けていた。
 マイラはこの奇縁の橋でトラックにはねられ、はかない一生を終えるのだ。
 陸軍大佐に昇進した主人公のローイが、ウォータールー橋の欄干に寄り添い、ヒロインのマイラとの出会いから、事故死までの深い思い出に浸るのである。
 思い出のシーンの中に、ローイとマイラの2人が、ナイト・クラブで時を過ごす場面があった。
 2人がラスト・ダンスを踊っていると、流れてきたのが「蛍の光」のメロディー。
 わたしは、この曲を国産品だと信じていたから、同じ曲がイギリスにもあるのかと不思議な気持ちにとらわれた。
 これがスコットランドの代表的な民謡であることを知らなかった。

 戦地に向かったローイの名前が新聞の戦死者公報欄に載る。
 それは誤報で、マイラは戦死したと思っていたローイと再会する。
 これから幸福な結婚生活が目の前に開けた矢先に、彼女は置手紙を残して彼の元を去る。
 そして、ウォータールー橋で交通事故で無残な一生をおわる。
 ところが、わたしにはマイラがローイの元を去った理由がよく理解できなかった。
 その疑問を木型工のYにぶつけてみた。
 すると、「それは君の想像にまかすよ」、大人びた言葉で軽くいなされてしまった。
 ローイの出征後、マイラはバレー団をクビになり、病に倒れ金もなく、友人と2人、生活に窮して兵隊相手の夜の女に身を落としている。
 今の映画と違って、こうした場面はさりげなく、上品に表現されているので、人間の営みにうといわたしには想像力がうまく働かないのだ。
 この映画によって、自分が無知で、人生の機微に鈍感な人間であることを悟った。
(自転車泥棒と青い山脈の写真は『昭和2万日の全記録』講談社)

 この年の夏、邦画では『青い山脈』が大ヒットした。
 上の写真のキャプションには、『青い山脈』のロードショー前売券を求めて、東京有楽町スパル座の前に長い列ができていた、と伝えている。
 その翌年には、同じ石坂洋次郎原作の『山の彼方に』(第1部・林檎の頬 第2部・魚の接吻)が上映された。
 出演者は、池辺良、堀雄二、若山セツ子、角梨枝子など。
 おぼろげな記憶でストーリーをたどると、
 地方の旧制中学校で1年生が予科練帰りの上級生に、毎日、理不尽な仕打ちを受け、いじめられている。
 そのひ弱な1年生たちが、「小さな蟻も団結し、集団の力で立ち向かえば、強いライオンさえ負かすことができる」という“イソップの話”(?)を聞いて奮い立つ。
 小さな1年生たちが、川辺で予科練帰りを集団で迎え撃ち、相手をさんざんにやっつける。
 ざっとそのようなストーリーだった。
 こちらも2部作で、主題歌「山の彼方に」も藤山一郎が歌っている。
 だが、『青い山脈』ほどの人気はなく、評判もいまひとつのようだった。
 この映画のリメーク版が出たという話も聞いたことがない。
 だが、わたしはこの映画に共感を覚えた記憶がある。
 同じような境遇を味わっていたので、身につまされるものがあったからであろう。

第9部 技能者養成所(8)

2008年03月05日 19:56

 工場実習はタガネとヤスリの練習から

 三菱重工三原車輌製作所の工場は、国鉄の糸崎機関区がある糸崎駅に隣接していた。
 機械工と仕上工の職種に割り当てられた生徒の実習場は、ブレーキ工場の建屋の一角にあった。
 機械工と仕上工は、機関車のほかにブレーキにも各2名配属されていたので、この実習場にはクラスの半数近くがいた。
 指導員は、機械工担当と仕上工担当の2人だった。
 仕上工の実習の手始めは、タガネ(鏨)とヤスリ(鑢)をの使い方だった。
 タガネの場合は、バイス(万力)に挟んだ鋳物のブロックを、15?ほどの長さのタガネではつっていく(削る)練習である。
 片手ハンマーを振りかざして、手に握ったタガネの頭を力いっぱい叩き、鋳物をハツっていくのだが、目はタガネの頭でなく刃先に集中しなければならない。
 ところが、刃先に目をやっていると振り下ろしたハンマーがタガネの頭をはずれ、タガネを握っている自分の手をしたたかに打ち付ける。
 金槌で自分の手を叩くのだから、その痛さといったらたまったものでない。
 空振りを恐れて力を加減したり、タガネの頭の方に目をやっていては、刃先の方がおろそかになり、一向に作業ははかどらない。
 慣れないパソコンのブラインドタッチと同じである。
 それを、仕上工の指導員は、タオルで目隠しをして実技を見せてくれたが、さすがだった。
 肩の後方から大きく振り下ろしたハンマーは、的確にタガネの頭をとらえる。
 刃先は見えないはずだが、握ったタガネの感触で分かるのだろうか、きれいに鋳物をハツっていくのだ。
 熟練工の技能のすごさに感じ入った。
 だが、そんなことで驚いているようではまだまだ。
 戦前は神話として残るような特技の持ち主が、あちこちの工場にいたそうだ。
 これは名古屋で、戦時中、ゼロ戦の製作に携わっていた人から聞いた話である。
 ゼロ戦時代のころ、エンジン工場に「エンジンの神様」と呼ばれる伝説の人がいたそうだ。
 この伝説の人は、飛行機のエンジンの音を聞くだけで、不具合の個所を的確に見つけるという。
 たとえば、エンジンを10台ほどずらっと並べた中央に椅子を置いて座り、エンジン音を耳にしながら、右から何番目のエンジンのどこそこのボルトがゆるいといった具合に、不調な部分を適切に指摘し、直させていくのだという。
 わたしが知っている現存者では、数学の神様と呼ばれる人がいた。
 この人は数学の知識だけでなく、計算尺1本でどんな複雑な計算もこなし、メモリを正確に読み取る特殊技能を持っていた。
(エンジンの写真は『三菱航空エンジン史 1915~1945』三樹書房)


 実習場の常備薬は赤チン

 実習場には指導員の机の上に、常備薬として赤チンが置かれていた。
 空振りしてハンマーで打ちつけた自分の親指と人差し指の付け根あたりに赤チンを塗りつけるためだ。
 痛み止めの効用などまるでなかったが、気休めのようなものだった。
 その点、ヤスリはタガネではつった後の鋳物の面を平に削っていく作業だから、痛い目に遭うことはない。
 ヤスリは「腰振り3年」といれう。
 ヤスリの技能を習得するには、それだけの年季がかかるという意味らしい。
 鋳物などのヤスリかけでは、そのときできる鋳物の粉で作業着が黒々と汚れる。
 作業着の汚れの程度で、われわれは実習をまじめさを現している積もりでいた。
 ところが、元海軍工廠にいたという工員によると、それはまったく逆で、「作業服を汚す奴は仕事が下手な証拠だ」と、叱られたそうだ。
 仕事のうまい人の作業着は、部分的でそこ以外は汚さないそうだ。
(ハツリの姿勢、タガネ、ヤスリかけは『技能ブックス7 手仕上げのベテラン』大河出版)


 工場で真剣そのものFに近寄り難さを感ず

 実習では仕上工も機械工と入れ替わって、旋盤やフライス盤、ボール盤など一通り機械の実習を受けた。
 その逆に機械工も仕上げの実習に時間をあてられた。
 工場の勤務時間は、朝8時から昼の1時間の休憩をはさんで午後4時までが定時である。
 午前中の4時間、午後の3時間ぶっ通しでの実習はきつい。
 指導員は頃合いを見計らって、実習時間中に時々、休憩時間をつくってくれた。
 工場の敷地の大部分は埋立地だから海辺に近い。
 休憩の間は、海の香りのするそこら辺の雑草の上に、へたり込んで疲れを癒すことが多かった。
 その休憩中に、誰かがクラスの異端児、Fのいる鋳物工場をのぞきに行ってみようと言い出した。
 鋳物工場には、Fのほかにもう1人、Eが配属されていた。
 工場の建屋に入ると、どろどろに溶解し赤黄色になった鉄の溶液が入った鉄製の重いバケツをFとEの2人が前後になって棒でかつぎ、砂の鋳型まで運んでいた。
 玉のような汗が噴き出たFの顔は、日ごろの学校と違い真剣そのものだった。
 うっかり注意を怠ると、超高温の溶鉄による危険が待ち受けているのだから当然であった。
 2人はわれわれの姿に見向きもしなかった。
 鋳物工場では、実習は即現場の仕事のようだった。
 EはFと違って普段から無口で、まじめそのもの生徒だから意外感はなかったが、Fのまじめな一面を垣間見ると、わたしたちの方がかえって気まずい思いになった。
 軽い気持ちでのぞきいったわたしたちは、彼らに声をかけるのもはばかれ、目を合わすことなくその場を立ち去った。


(『三菱重工名古屋航空機製作所25年史』より)



第9部 技能者養成所(9)

2008年04月08日 16:06

 実習で学んだ技能は無用の物に

 養成工1年前期の期末試験は、学科のほかに工場実習の実技テストがあった。
60年近く前の記憶で不確かだが、初めてのテストは素材として与えられた鋳物をタガネとヤスリで削り、1辺5?(?)の正方体に仕上げる作業だった。
 各自が仕上げた正6面体の精度を、指導員が角度計やマイクロメーターで計り、誤差が100分の1?以上を超えると、その誤差分が減点された。
 試験は定められた時間内に打ち切られるが、早く仕上げればその短縮分が加点になる。
 わたしは、山で家を建てるときノミやカンナを扱い、手作業の経験があったから、他の生徒より要領はよく、実習の点数は結構よかった方だと思う。
 仕上工の基本として、タガネやヤスリのほかにキサゲ作業や罫書き作業、タガネの焼入れ焼き戻しなど鍛冶屋の真似事も習った。
 ところが皮肉なことに、実習で学んだ仕上工の技能や技術も、卒業後は一度も使う機会がなく無用に終わった。
 その点、機械工の連中は卒業までに、旋盤で歯車を切削できれば一人前というところまで技能をあげていた。
 とはいえ機械工の中でも、前述したように菊池は卒業と同時に、垣内はその1年後に会社を辞めている。
 また、トップで卒業したMは機械工から設計に回された。
(ヤスリかけ『技能ブックス7 手仕上げのベテラン』大河出版、マイクロメーター『機械工学一般』理工学社、旋盤『要説 機械工学(第4版)』理工学社)

国鉄3大怪事件にも無関心

 わたしたちが入社した昭和24年の夏は、国鉄で「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」と立て続けに怪事件が発生している。
 下山国鉄総裁が同年7月5日に消息を絶ち、翌日未明に轢死体として発見された「下山事件」は、いまだに他殺説と自殺説とに分かれたままだ。
 その3日後の15日に発生した「三鷹事件」は、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が車庫から走り出し民家へ突入、6人の市民が死亡、14人が重軽傷を負う。
 8月17日に起こった「松川事件」は、東北本線の青森発上野行きの旅客列車が、松川駅へ向かう途中で脱線転覆、機関士1人と助士2人が死亡、乗客や車掌など10人が負傷した。
 レールの継ぎ目板がはずされ、枕木の犬釘が大量に抜かれていた。明らかに計画的犯行であったとされている。(『昭和 2万日の全記録 占領下の民主主義』講談社より)
 事件の発端は、国鉄当局が国鉄労組に大量の人員整理案を通告してからだ。
7月4日、下山国鉄総裁が「第1次整理は3万7百人」、翌々日の6日には「第2次整理9万人余」を発表。
 最終的には計12万413人が解雇されると知れたから、国鉄労組も騒然となった。(『昭和史 戦後編』半藤一利著、平凡社)
 国鉄だけでなく、この年は常磐炭鉱や東芝などでも人員整理が断行され、共産党員や労働者たちによる労働争議が各地で頻発している。
 そのころのわたしたちは、新聞やラジオなどのニュース源に接する機会がほとんどなく、このような物情騒然とした社会の動きに、まったく無関心だった。
 朝日とか毎日新聞などの大手新聞社も、当時は紙不足でタブロイド版のペラ1枚(1部1円50銭)。
 その新聞を通勤・通学の帰りに駅の売店などで買おうとしても、売り切れていることが多かった。

 国鉄3大事件にも無関心

 ところで、当時のわが社の工場はどうだったか。
 工場見学のときだったからメーデーの前後だったろう。
 ブレーキ工場に入ると、工場内の柱や旋盤の脇に大きな赤旗を掲げ、意気揚々と作業している工員たちの威勢のよさに強烈な印象を受けている。
 ある朝、登校すると廊下に学校の教師たちをアジる戯画がべたべた張られていたのに驚かされたことがある。
 共産党かぶれの3年生たちの仕業だろう。
 体制側の校長が、奴隷の生徒を鎖でつないで支配しているありきたりな図式で、結構うまく描かれているので感心した。
 会社には第1組合と第2組合の2つの労働組合があったが、養成工の間はどちらの組合にも入ることは禁じられていた。
 若気の至りで、3年生の中にそれに反発するものがいてもおかしくない。
 中には、わたしたち1年生に党の機関誌を「買ってくれないか?」とすすめたり、「ワシは第2組合員じゃ」と肩を怒らし、第1組合員に絡んだりするものがいた。
 だが、どちらにしてもしつこくさはなく、共産主義を信奉している先進的な自分を誇示したいだけのようでもあった。
(写真は『昭和 2万日の全記録 第8巻 占領下の民主主義』講談社)

第9部 技能者養成所(10)

2008年04月19日 09:34

 気の重い夕暮れの帰り道

 学校の時も工場実習の時も始業時間は午前8時だったから、毎朝6時前には家を出ていたはずだ。
  朝、家を出ると、自転車を預けてあるふもとの農家(山下宅)まで4?の山道を徒歩で下り、そこから本郷駅までの5?を中古の自転車で走った。
 学校のときは本郷駅からひと駅東の三原駅で、工場実習のときはその次の糸崎駅で下車する。
 養成工1年前期のころは、サンマー・タイムで標準時間より1時間繰り上がっていたこともあり、夕方、家に帰り着いても外はまだ明るかった。
 サンマー・タイムも9月に終わり、後期に入ると日足は目に見えて短くなる。
会社の帰途、本郷駅からふもとの山下さん宅にたどりつくころには、すでに外はたそがれている。
 自転車を預け、山の入り口にさしかかると、山林の間を通るせいか、暗さがだんだん増してくる。
 ただ、山道とはいえ荷車がすれ違うだけの幅があるので、足元は広くはっきり見えた。
 坂道を少し上がり、カーブになった辺りから右手を見下ろすと、眼下に広がる田んぼのあちこちに農家の明かりが灯っている。
 小学生たちが口ずさんでいた童謡、「あの町、この町」の哀調を帯びた歌詞が、ふと思い浮かぶ。
  ♪……だんだんお家が遠くなる、遠くなる、いま来たこの道帰えりゃんせ
 わたしの場合は、日が暮れても“いま来た道”を引き返すわけにはいかない。
 人里恋しさを募らせる人家の明かりを背に、どんどん遠ざかって行かねば、自分の家にはたどり着けないのだ。
 人っ子ひとり通らない夜道の静けさは、なんとなく不気味で気を重くする。
道の横手の森の中で、ガサッと小さなもの音ひとつしただけで、ドキッと肝を冷やす。
 2年前の盆休みの、川上弟のことを思い出す。
 尾道から最終列車で1人だけ帰った彼が、真っ暗になったこの道を、大声で泣き叫びながら上ってきたという話だ。
 山の夜道は理由もなく恐怖を誘う。
 その恐怖心をまぎらわすためには大声でも張り上げたくなる、その気持ちはよくわかった。
 わたしたちの入社条件は「自宅通勤可能な者」であったから、気の重い帰りの夜道を避けるすべはない。
 そう諦観(ていかん)していたら、思いもかけない朗報が耳に入った。
(絵は『谷内六郎展覧会《秋》』新潮文庫)


 4年半ぶりの電灯と畳のある生活

 ブレーキ工場で一緒に実習を受けていたNが、会社の寮に入ったと言う。
 彼は三原市内で下宿していたが、下宿先との関係が思わしくなくなったらしい。
 学校に相談すると、簡単に入寮の手続きをとってくれたそうだ。
 わたしも、早速、入寮を願い出ると、これもあっさり認められた。
 寮棟は学校と廊下で続いていたが、それまでまったく気がつかなかった。
 入寮してみると、養成工だけの部屋が3部屋ほどあり、2、3年生が各部屋に割り振られていた。
 われわれの前までは、養成工でも入社時から寮に入れたのである。
 入寮したその夜、3年生の室長は「これからちょっと用事がある。帰ってきたら、ほかの部屋に紹介しに連れて回るから、それまで部屋で待っていてくれ」と言い残して出て行った。
 同室の2年生が1人部屋に残っていたがおとなしい人で、何も話しかけてくれない。
 わたしは部屋の隅っこで正座し、かしこまって室長の帰りを待っているしかなかった。
 しばらくすると、部屋の障子が開き3年生の1人が入ってきた。Iだった。
 Iと言えば、学校では講堂の卓球台の周りにたむろしているチンピラ連中の1人で、われわれ1年生から恐れられていた。
 やせぎすで小柄な方だが、気性は激しかったようだ。
 とにかくこれは、まずいと思った。案の定、予感は的中した。
 「おどら(お前)、こんど寮に入ってきた1年生か。なんで、わしらんとこへ挨拶にこんのじゃ!」
 直立不動の姿勢で壁に押し付けられ、あわやビンタと覚悟したところへタイミングよく室長が帰って来てくれた。
 「I、わしが悪かったんじゃ。わしが帰ってきてから、皆の部屋に挨拶に連れて行こう思っとたとこなんじゃ。許しちゃってくれ」
 その言葉で、Iはあっさり機嫌を直した。
 新入りの1年生を、一度おどしておきたかったのだろう。
 本気で手を出す気はなかったようだ。
 ようやく、電灯の灯る畳の上での生活に復帰できると思った矢先に、妙な洗礼を受けるところだった。
 思い起こせば、昭20年8月9日、ソ連軍の満州侵攻によって逃避行を始めて以 雨漏りの心配もない、電灯と畳のある生活に戻ることができたのは……。
 年明け後だったと思う。会社で大量の人員整理が行われた。
 そのおり、Iらを含む3年生の不良連中は卒業を待たずに一掃されていった。
 学校側は、1年生を恐喝して金品を奪ったり、私的制裁を加えたりした3年生を的確に把握していた。
 帽子をアミダにかぶり、不良のボスたちの指名で1年生を教室から連れ出していたチビもその中に入っていた。
 後にこの男と町ですれ違ったことがある。さすがにグツ(バツ)が悪いのだろう、目をそらし、うつむき加減に去って行った。
 誰かの話では、彼はいま醤油工場で働いているということだった。
(上の写真2枚は『動輪』大野毅一、光村推古書院)



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