第6部 戦後の開拓地で(7)

2007年06月07日 13:49

 本家は曽祖父の請け判で破産

  請け判(うけはん)。請け人が借金の保証人となって判を押すこと。受け売りである。
 映画監督で脚本家の新藤兼人さんの家は、お人好しの父親が他人の請け判をしたのがきっかけで破産した。
 8歳から13歳ぐらいまでかかって山も田畑も家も屋敷跡も失い、蔵がたったひとつ残って父と母とわたし(新藤兼人)は蔵の中へ追い込まれて暮らした。(『私の履歴書』日本経済新聞07.5.2より)
 新藤さんが一家離散した家は広島県佐伯郡和田(現・広島市佐伯区)。
 くしくも、保証倒れで破産したわたしの本家も同じ広島県で、賀茂郡河内町である。
 祖父の父親、つまりわたしの曽祖父が他人の請け判で、先祖伝来の田地田畑を失ってしまった、と聞いている。
  それでも、古いわらぶき屋根の家と、小さな庭や納屋は失わずにすんでいた。
 長男は大阪へ、次男である祖父は16歳で朝鮮鉄道に応募し、朝鮮へ渡る。
 あとに残された末弟の末次さん(大叔父)が、小作農をして本家を継いでいた。
 大叔父夫婦には一粒種の息子がいたが、太平洋戦争末期に召集され戦死。
 末次さんの妻である大叔母は、リューマチの後遺症で、やせ細った小柄な体を不自由に動かしていた。
 そんな不運が重なっているところへ、敗戦の1カ月後に何の前触れもなく、すでに死亡した次兄の一族郎党8人を、父が京城から引き連れてきたのだ。
(農家と囲炉裏(カマとクドといろり)は岩波写真文庫『日本の民家』)

 さらに清叔父(父の弟)の妻は肺結核の重患で、引き揚げ船に乗るにも担架で運ぶ状態にあり、帰国して1週間後に死亡したという。
当時の日本では肺結核は死亡率第1位の「不治の病」と忌み嫌われていた。
 話題の乏しい農村のことだから、その噂は村中に伝播していったことであろう。
 大叔父は寡黙で温厚篤実、自分の意思や喜怒哀楽を表面に出すことのない人柄だが、胸中深くはどうであったろうか。
 大叔父夫婦にとってはまさに青天の霹靂、疫病神が突如舞い込んで来たようなものだ。
 兄嫁にあたる祖母のキク婆さんはともかく、父や清叔父は兵隊検査で一度立ち寄ったことがあるだけ、2人の叔母や子どもに至っては一面識もないはずだ。
 本家の大叔母は、話題が1人息子の話に及ぶと、いつも、枯れ枝のような細い腕を招き猫のように曲げ、手の甲で涙をこすっていた。
 そして、「出征していくときに戦死することは分かっていたんでしょうよ。生きては帰れないから覚悟するよう、そう言い残して出征していきました」
 人生は皮肉なものである。
 末次さんの兄である祖父の5人の子どもは、父や叔父を含め誰一人太平洋戦争で死んでいない。
 「1人息子は要領が悪いから早く戦死する」
 そんなことを言う人がいる。
 統計的根拠はともかく、わたしは妙に納得できるのである。

(戦友に背負われて…は『図説 アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会編、京城宝塚劇場の御招待券は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史<1>朝鮮』毎日新聞社)

第6部 戦後の開拓地で(8)

2007年06月11日 15:37

 ソ連軍侵攻で満州に戻れなくなった父

 昭和20(1945)年8月9日。
 朝鮮の京城(現ソウル)にいた父(38歳)は、ソ連軍の満州侵攻を知る。
 寝耳に水だ。取るものも取り敢えず京城駅から汽車に乗り満州に向かうが、ソ連軍の進撃が早く、どのルートの列車も不通になる。
 入満の術を失い帰満を断念。
 ひとまず内地に引き揚げ、再度、満州に渡ろうと試みるが、これも失敗に終る。
 当時、京城と満州の牡丹江(ぼたんこう)を結ぶ普通列車は、朝鮮半島の日本海側(東側)を通り、鮮満国境の図們を経由するのが通常のルートだった。
 最初に父が乗った列車は、当然このルートである。
 だが、朝鮮領内を走っているところへソ連機の機銃掃射をうける。
 その時、同じ客車の座席に潜り込んでいた隣の男は、不運にも機銃掃射の弾痕を背中に残して即死。
 すんでのところで父は命拾いをする。
列車は不通となり、いったん京城へ引き返す。
こんどは黄海側(西側)を走る新義州経由の列車に乗り換える。
こちらも途中から列車は進行できず、満州に入ることは不可能であることを知る。
帰満をあきらめた父は、京城の清叔父(33)の家に舞い戻るしかなかった。
ソ連軍の侵攻直前に召集を受けた叔父も、召集解除になって帰宅する。
入隊はしたものの主要な武器弾薬はなく、小銃も支給されず、銃剣の中身は竹光だったという話だ。
日本の軍隊は末期的症状を呈していたのだ。
9月に入り、京城では内地への引き揚げが始まる。
 父は叔父とともに、祖母(57)、叔父の妻(30)と長女(6)、次妹の三枝(27)と長男(4)、末妹のサダ子(23)の総勢8人を引き連れ、広島県河戸の本家へ押しかけることになる。
 叔父の妻は、前章で述べたように担架で運ばなければならないほどの重患。
サダ子叔母もそのころ結核に感染。三枝叔母の夫は出征中だった。
 父が京城へ行ったのは清叔父に召集令状が来たためで、叔父の家に同居していた一族を満州に連れてくる予定ではなかったか。
 そこへ突如、ソ連軍の満州侵攻である。
 結果的に、京城の一族郎党を満州ではなく、疎遠な内地の本家に連れて行くことになろうとは、父もまさかの思いだったろう。(地図は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満州』、写真は『同[1]朝鮮』毎日新聞社)

第6部 戦後の開拓地で(9)

2007年06月16日 16:22

 密航船で島に置き去りに

 父は内地に引き揚げて一段落すると、密航船で朝鮮に渡り、あとは陸路鉄道を利用して満州に入ろうと目論んだ。
 京城で生まれ育った父は、朝鮮語力に自信を持っていて、朝鮮人相手に会話していると、「お前は日本人でなく、朝鮮人でないか?」と、疑われるくらいだったと自慢していた。
 その過信が災いする。朝鮮人の民族服で扮装(ふんそう)し、密航船に潜り込み、出航したところまではよかった。
 ところが、船上で日本人であることがすぐにバレ、もう1人いた日本人と2人、途中の島に置き去りにされたそうだ。
 その島では船の便がほとんどなく、10日ほど何儀(なんぎ)したすえ、やっとの思いで日本にたどりつけたとか。
 後日、清叔父から聞いた話では、密航船の中では誰にも話しかけられないよう、船内の片隅に隠れるように小さくなっていた。
 手には朝鮮人の持つ特有の長いキセルを持っていたそうだ。
 より朝鮮人らしく変装できると思っていたふしがある。
 わたしのイメージでは、長いキセルをくわえているのは、長い顎鬚(あごひげ)を垂らした年寄りの姿だ。
 タバコを吸えない父の喫煙者に対する劣等感(?)が、キセルを意識させたのかもしれない。
 が、わたしが想像するには、かえって不均衡で怪しまれかねないように思える。
 こうした努力もむなしく、「ここに日本人がいる!」と騒がれ、もう1人の日本人ともども島に降ろされる。
 ところが、結果的にはそれが幸いしているから、運命とは分からないものだ。
 そのころの朝鮮半島の様相は激変していた。
 満州に行けるどころか、朝鮮半島を北へ向かって縦断するなど、とんでもないことだった。
 当時の朝鮮北部の惨状は、次の『証言 京城への途』に詳しい。
 筆者は、日本海側の北端近くにある“会寧”から“京城”まで約840?に及ぶ逃避行に、8月13日から2カ月近くかかっている。
 列車なら所要時間約28時間である(昭和14年ごろ、ハルピンと牡丹江間の355?が列車で約12時間で換算。当時は各駅の停車時間が長かったから、走行時間はもっと短かったであろう)。
 以下、『証言 京城への途 小島シマ(会寧から引揚げ)』(『別冊1億人の昭和史 日本植民地[1]朝鮮』毎日新聞社)より抜粋(文の中略は行換えで済ます)。
 朝鮮咸鏡北道会寧邑、それは私の生まれ育った所だ。
 8月13日夕方いよいよ出発となって、荷車に乗せられ、嬰児は行李に入れ、夏の最中だというのに湯たんぽを二つも抱かせた。
 9月1日、白岩にたどりついた時、すでにソ連軍は進駐しており、相当数の避難民が鉄道関係の宿舎に入り込んでいた。
 集落に設けられた朝鮮の人達の保安隊の検問所を通るたびに、所持金品物はだんだん減り、嬰児の大事なミルクを取り上げられた時は思わず涙がこぼれた。
 列車は咸興(カンコウ)・元山を経て連川(レンセン)に到達した。京城まであと50?だ。しかし列車はそれ以上先へは進まなかった。ソ連軍によって阻止され(略)、北へ後戻りし始めた。
 平康郡から金化郡へ、そして抱川郡へと歩き、幼い子供づれの一行に朝鮮の人達が宿や食事の世話をしてくれた手厚い温情はほんとうに有難く、終生忘れることははできない。
 加平郡で、この先にはソ連軍はいない。美軍(米軍)がいると聞いた時は、一同思わず胸をなでおろし、歓声をあげた。
 鉄道加平駅から毎日旅客列車で運行されている。数日後に京城に着けると思うと(略)なかなか眠れない。
 時は10月5日であった。

 ソ連軍侵攻と同時に、朝鮮北部から数多の同朋がこのような苦難の逃避行を続けているという情報は、日本内地にはまだ流れていなかったようだ。
 情報不足とはいえ父の行動は軽挙妄動というか、無謀というか、蛮勇というか、そのそしりは免れまい。
 満州に残した家族もそうだが、勤務先の海林(ハイリン)軍事郵便所のことも気がかりで、はやる気持ちを抑えがたかったのだろう。
 牡丹江近郊の小規模な軍事郵便所とはいえ、所長という職名を拝していた責任感もあったに違いない。
 後年、出身校の京城商業のクラス会にはたびたび出席していた様子だが、軍事郵便所の同僚を探したり会ったりしたという話は聞いていない。
ソ連参戦という未曾有の事変が勃発したときに、公用ならともかく私用で職場を離脱し、さらに過酷なソ連抑留も体験していない。
 この負い目は、戦後の生涯ぬぐいえなかったであろう。
(写真と地図は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史<1>朝鮮』、軍事郵便貯金は『昭和二万日の全記録』講談社)

第6部 戦後の開拓地で(10)

2007年06月19日 22:52

 遺品の少年倶楽部と少年小説

 佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』や『少年賛歌』、佐々木邦の『村の少年団』や『愚弟賢兄』など単行本数冊と、月刊誌の『少年倶楽部』などを、ごっそり譲り受けた。
 戦死した河戸の跡取りが、少年のころ愛読していた本である。
 それにハーモニカも。
 戦前の小作農の暮らしぶりはよく知らないが、貧しい農家でこれほどの本を子どもに買い与える家は少なかったのではなかろうか。
 河戸の末次さん夫婦にとっては息子の大切な遺品だったのだろうが、肋膜炎が完治しないまま用倉で無為な日々を送っていたわたしにとっては有難かった。
 話しは替わるが、詩人の故サトウハチロー、作家の佐藤愛子、劇作家の大垣肇の3兄妹は、いずれも佐藤紅緑の腹違い子どもであると知ったのは、まだ最近のことだ。
 紅緑の私生活の乱脈ぶりは佐藤愛子の『血脈』に詳しいが、彼の少年小説にでてくる主人公といえば貧しい田舎の少年が多く、素朴な正義感、友情、義理人情などがモチーフになっている。
 紅緑は天性のストーリーテラーと言われるが、現実の人物像を知ると苦笑するほかない。
 それはともかく、昭和初期の『少年倶楽部』の人気はすさまじかったらしい。発売日には行列ができたほどという。
 戦死した末次さんの息子も町の本屋まで本代50銭を握りしめ、遠路はるばる駆けつけていたのであろう。
 わたしが国民学校5、6年生のころの購読していた『少年倶楽部』は、すでに戦争末期で発行は隔月間となり、ページ数も極端に減少し、内容も米国に対する敵愾心(てきがいしん)や戦意を鼓舞する読み物で埋まっていた。
 わたしが譲り受けた『少年倶楽部』は、まだ日米が友好的なころのもので、昭和9年11月にベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどの全米チームが初来日した記事が掲載されていた。
 表紙の色彩も鮮やかで、別冊や豪華な組立模型などの付録が盛りだくさんあった。
  この時期の雑誌界は付録全盛の時代だったが、昭和12年7月の盧溝橋事件勃発を契機に中断された、と。(『昭和二万日の全記録』講談社より。写真類も)


 高等科1年に編入、1年半ぶりの復学

 ある日、父がニコニコ顔で帰ってきた。
 こんどの学制改革で北方村に新制中学校が出来る。いま北方国民学校の高等科1年に編入しておけば自動的に新制中学校に進めるというのだ。
 学校のことが、父も気になっていたようだ。
 それ以前に、岡山県の実家に引き揚げていた忠利叔父(父の妹秀子の夫)から、自分の通っていた中学校に入るようすすめられていた。
 秀子叔母夫婦は牡丹江から新京(現長春)に避難していたが、2歳の長男を亡くしたものの無事だった。
 忠利叔父はお互いの無事が確認できると、わざわざ用倉まで訪れ、わたしたちの暮らしぶりを見届けに来たのだ。
 叔父が用倉に来るとき、「用倉山」まで行くと人に話したら、生活が苦しいから「よう暮らさん」ので見に行くのか、と聞き間違えられたという。
 当時の用倉の生活ぶりはそのとうりだったから、勘違いも言い得て妙だった。
 叔父は帰るとき、わたしを岡山に連れて行くことにした。
 山陽本線の岡山駅から津山線に乗り換え、福渡駅で降りてかなり離れたところに叔父の実家はあった。
 実家は母と同じ瓦屋だったが、こちらの方が少し規模が大きい。
 戦後の復興期で瓦屋は繁盛しているようだった。
 叔父はわたしの学校のことを心配していて、ここから自分の通っていた中学校に転入するようすすめた。
 彼は父の面子をおもんぱかってか、父には直接切り出しにくかったらしい。
 帰り際に、君の口からお父さんに直接頼むよう念を押された。
 だが、わたしは父にその話は切り出さなかたった。
 「他人の世話にはなりたくない」
 頑迷で融通の利かない性格を知っていたからだ。
 昭和22年の2月ごろ、すでに3学期に入っていたが、わたしは北方国民学校高等科1年に復学した。

第6部 戦後の開拓地で(11)

2007年06月27日 19:43

 墨塗り教科書と農協の木炭トラック
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 科目の名は覚えてないが、隣り合わせで見せてもらった教科書の一部がすずりの墨で黒塗りされていたのには面食らった。(右の図は『戦争と庶民 1940~49』朝日歴史写真ライブラリー発行より)
 戦前の学校では、教科書に落書きしたり汚したりするなど想像もつかないことだ。
 教科書を粗略に扱おうものなら、先生にこっぴどく叱りつけられ、非国民呼ばわりされかねない。
 敗戦の年の9月20日に文部省から各都道府県に「終戦ニ伴フ教科書用図書取扱方ニ関スル件」が出され、教科書の墨塗りが始まった。
 軍国主義を強調し、戦意高揚をうたうような箇所が対象とされた。
 この墨塗りを体験した世代を、「墨塗り世代」(教科書のそれまで戦争を鼓吹していた部分を教室で塗りつぶして使用した世代)と呼ぶそうだ。
 『子どもたちの太平洋戦争―国民学校の時代―』(岩波新書 山中恒著)によると、教科書の墨塗りはあくまでも、文部省の命令であって、占領軍命令ではなかった。
 教科書監修官たちが、戦前の教育内容を占領軍の目からかくそうとした、あるいは不適当な教材は削除し誠意のあるところを見せるため、という二つの説がある。
 いずれにせよ、自分たちの立場をなんとか糊塗しようというものであった。
 それにしても、敗戦後1年半経ってもなお改訂教科書が発行されていないのか疑問に思っていたら、原因は意外と単純なところにあった。
 朝日新聞(昭和22年2月4日)の見出し記事「ノートは年1冊 紙危機の実態をきく」のリードを読むと、
 いかがわしい本があふれているのに、一方では新しい教科書がつくれないという……」
 深刻な紙不足が原因らしい。
 いかがわしい「カストリ雑誌」類は、闇のルートで紙を手当てしていたらしい。



 走るのは無理だったが、北方村の国民学校まで約5?の山道を通う程度の体力は回復していた。
 同校の高等科1年生は30人前後、男女ほぼ半々だった。
担任は編入生のわたしを、満州の中学校からの転校生だと紹介した。
 それを聞いて、ある生徒はわたしのことを「満州の忠中(ただちゅう)に行っとたんじゃげな」と、身近な中学校の例をイメージしたようだ。
 忠中とは、旧制の忠海中学校(現忠海高等学校)のことで、瀬戸内海沿いの国鉄呉線の忠海町にあった。
 話はそれるが、昭和25年、この忠海高等学校を舞台に藤田泰子(ふじた やすこ)・鶴田浩二(つるた こうじ)共演で、映画『エデンの海』(吉村公三郎監督)が制作されている。
 瀬戸内の女子高校を舞台に青年教師と女子高生の純愛を描いた青春映画で、その後2回もリメークされている。
 リメークの数だけでみれば『青い山脈』並みだ。
 ちなみに3回目(昭和51年)のリメーク版は、山口百恵が主演である。
  
 この近辺の村から中学校に進学する生徒は、ほとんどこの忠海中学に自転車で通学していた。
 戦前は農村から中学校に通う生徒はほんの一握り。
 村でも大地主や名主といった有力者の子弟などであった。
 また、当時の義務教育は国民学校6年までだから、全員が高等科に進むわけでもない。
 その高等科1年生たちだが、“満州の忠中”から転校してきたわたしに、なんとなく一目置いている様子だった。
 クラスのほとんどが小学校1年生からの持ち上がりで、途中から入ってきた新参者とどう付き合ってよいか戸惑いもあったようだ。
 とはいえ、転校生の能力のほどを試してみたいのは、どの学校の在来生でも変わらない。
 クラスに4年生の時に転向してきたという男子生徒がいた。
 その太田(仮名)は、クラスの中で勉強が一番よくできると皆が認める生徒だった。
 彼は休み時間、教室の後方に立てかけられていた黒板に向かうと、英文字をすらすらと書き並べていった。
 周囲に集った生徒たちの好奇の視線は、わたしに向かって強く注がれているのが意識された。
 大田は独自で覚えたらしいローマ字を得意げに黒板に書き綴っていたのだった。
 周りの誰かが、わたしに向かって「分かるか?」と、反応をうかがった。
  わたしの中学校では在学中、敵性語である英語の授業はなくなり、アルファベットもまともに習っていなかった。
 無念だが首を横に振らざるを得なかった。
 だからといって、その後もクラスの誰ひとり元満州の忠中生をあざけったり、さげすんだりすることはなかった。これは意外だった。

 「農協のトラックだ!」
 授業中に遠くからトラックのエンジンの音が聞こえて来ると、耳ざとい男子生徒らは窓の方を気にしはじめ、ざわついた。
 村で唯一の文明の利器である農協の木炭トラックに、男子生徒の多くが憧れていた。
 農協のトラックが休み時間に学校の前に差しかかろうものなら、いっせいに2階の窓から身を乗り出し、たった1台の木炭車に目を輝かせていた。
 この村は敗戦後もずっと無風で、子どもたちが進駐軍のジープを見かける機会もなかったようだ。
 当然、アメリカ兵の乗ったジープに群がり、「ギブ・ミー・チョコレート」とか「ギブ・ミー・チュウインガム」と叫んだ体験はないはずである。


(木炭トラックの写真は『[図説]アメリカ軍が撮影した占領下の日本』太平洋戦争研究会=編 河出書房新書)、カストリ雑誌とジープのアメリカ兵の写真は『敗北を抱きしめて<上>第二次大戦後の日本人』岩波書店 ジョン・ダワー著)


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