第1部 運命、それぞれの岐路(12)

2006年07月06日 13:12

 ソ機のスピードに驚嘆

〈午後四時市内ニ爆撃並ビニ機銃掃射アリ、校舎、職員、生徒ニ異常ナシ〉

 ぼくは寮にもどってみた。家に帰れない国境の1年生が、まだ大勢残っていた。
 授業は中止で、戦闘訓練もなく、みな手持ちぶさたのようだった。めいめい勝手なことをやって時間をつぶしていた。
 「牡丹江市の防衛につくことになった」
と、木銃を手に意気込んでいる奴もいる。
 星輝寮では1室8名で3年生の室長がいたが、この元営林局跡に引っ越してからは1年生だけとなり、みなのびのびしていた。
 当時の中学校はどこでもそうだが、上級生の下級生に対する私的制裁があった。
わが校もご多分にもれなかった。
 全寮制だから、どんな室長とめぐり合わせるかによって、その後の寮生活の命運が右される。
 それは、いつに室長の人間性そのものにかかわっていた。
 ひどい話は、室長の級友が「殴らせろ!」と、室に入ってきて1年生を理由もなく鉄拳で殴るというのだ。
 彼らの室長は、それを制止できず、ただ黙認しているだけ。
 その室の同級生たちは、いつも口内が切れたままで直るひまもなく、血が滲んでいたという。
 「まるで地獄のような毎日だった」と。
 戦後、同窓会で本人たちが口にしたので初めて知ったことだ。
 ぼくの室でも一度、室長に全員ビンタを張られたことがある。
 同室の1年生が上履きで窓から庭に出、そのまま室内に戻ったらしく、床に土足の跡が残っていた。
 室長が全員を詰問したが白状するものがいない。それで連帯責任をとらされることになったわけだ。
 直立不動をさせ、
 「股を開け!」、「目をつぶれ!」、「歯を食いしばれ!」
 その後、ビンタが飛んできた。
 歯をくいしばるほどのビンタでなかったが、室長は軍隊の内務班のまねごとをしたかっただけのようだ。

 
                         
上は日本陸軍の複葉機
左はドイツ空軍の急降下爆撃機『20世紀の歴史(15)第二次世界大戦[上]』(平凡社)

 
 午後4時ごろ、「あっ! 飛行機だ!」  
 叫び声に、全員いっせいに窓際に駆け寄った。 
 “キーン"
 天井を圧するような爆音を残し、ソ連の戦闘機が、あっという間に飛び去った。
 牡丹江市の上空では、2枚翼の赤トンボ(複葉の練習機)さえ見かけなくなって久しい。
 最新鋭の戦闘機のスピードがどんなものか、だれも見当はつかなかいが、その速さに一同驚嘆(きょうたん)した。
「あの金属音は、ドイツ映画で見た『急降下爆撃機』の爆音そっくりだ。あんな速い飛行機がソ連にあるわけがない、きっとドイツで分捕った戦闘機だろうわれわれは、お互いの顔を見ながら、そう言い合った。
当時のソ連軍の主力戦闘機ラー5型、ラー7型は時速650?以上。
 日本陸軍の主力戦闘機は飛燕型で時速590?、疾風型で624?である。
 ソ連機に比べ時速で劣るだけでなく、これらの新鋭機は満洲には配備されていなかった。〈『一九四五年 満洲進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』[徐焔(シユ・イェン)著、朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳](三五館発行)〉より。
(上のソビエト機は『[図解]世界の軍用機史 イラスト・解説=野原 茂』(グリーンアロー出版)

 夕方近くなって、牡丹江市内の第二新市街に住む秀子叔母(父の妹)の家に寄ってみようと思い立った。
 玄関まで出ると、軍用トラックが1台横づけになっている。
 旧知の志田さんが同行の当番兵と一緒に自分の荷物を荷台に積み込んでいるところだった。
 彼は石門子校の1年先輩だった。
 ぼくが在校生代表で送辞を、彼が卒業生代表で答辞を読みあった間柄である。
 それは当然であって、6年生は彼1人、5年生は2人いたが1人は女の子だったからだ。
 星輝に入学いらい、いや、石門子いらい、お互い顔を合わすのは初めてだった。
 寮内で下級生は自分の室を出て歩き回ることを、あまりしなかった。廊下で上級生と会い、思わぬことで叱責を受けたりすることは避けたいからだ。
 憲兵少尉に進級していた彼の父は、石門子からほかの地へ転属になっていたようだ。
 息子のために寮まで、トラックと当番兵を差し向けたのだろう。
 トラックに近づくと、
 「徳広君! 何をぐずぐずしているんだ! 早く避難しないと、ここも危ないぜ!」
 いつになく緊迫した表情で、そう言い残すと、トラックの助手席にあわただしく乗り込んだ。
 彼を乗せたトラックは、何ものかに追われているかのようなスピードで走り去った。
 ぼくは呆然と、それを見送った。
 それが彼を見た最後の姿だった。

〈昼夜ヲ問ワズ、満鮮系不逞徒輩ノ蠢動著シキモノアリ〉

 後日談だが、彼の父はシベリアで10年間の抑留生活を終え、昭和31年暮れに広島県福山市に帰国した。
 そのことを中国地方の新聞が写真入りで大きく取り扱っていた。
 同紙によると、彼らの家族は避難の途中、暴民に襲われ彼と母親、ぼくより1学年下の妹、最下級生だった満州男(ますお)君と、もう1人の弟を含む全員が死亡したとあった。
 妻子と一緒に生活することが出来る日を唯一の励みに、厳しい抑留生活を耐えてきたのに、刑を終えて内地に復員してみると、心の支えであったその妻子はすでにこの世にいない。
 一体これから何に生活の張りを求めていけばよいのか、志田さんの父の悲嘆にくれた談話が載っていた。
 こういっては失礼だが、憲兵少尉の下級将校がソ連に最後まで抑留されるには戦前に重い罪状があったからだろうか。

第1部 運命、それぞれの岐路(13)

2006年07月11日 15:17

 空きビンと木銃で牡丹江防衛

 八月十二日(日曜日)

 <十五時三十分、敵戦車二輌、掖河(えきか=牡丹江市の東方五?)地区進入、機砲五十門磨刀石(まとうせき)進出ノ報伝達サル〉

 秀子叔母の家で一夜を過ごした翌日、郵政管理局に勤めていた叔母の夫、忠利(ただとし)叔父ら官舎の男たちは、火炎ビン用にサイダーまたはビールの空きびん2本と、木銃を携行するよう命じられ、「牡丹江市防衛」のために駆り出されて行った。


(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社)

 空きビンは、ガソリンを詰めて火炎ビンとし、戦車攻撃用兵器として使うためのもの。昭和14年5月から9月にかけて「ノモンハン事件」の戦場で使われた原始的な兵器である。
 ソ連軍の新型戦車に対し、日本軍の対戦車砲はまったく役に立たない。火器の貧しい日本側の一兵士が考え出したのが火炎ビンだった。
 ガソリンエンジンを装備したソ連戦車の機関室は作戦行動中手がつけられないほど熱くなる。そこへ火炎ビンを投げつけると、たった1発でソ連戦車は炎上した。
(参考資料:『第二次大戦 殺人兵器』小橋良夫著 銀河出版)

 だが、それは6年前の話だ。
 ディーゼルエンジンのT34型戦車の出現には効果はなかったであろう。
 それに、火炎ビンも戦車に投げつける位置までたどり着けたらの話だ。
 満州国と外蒙古の国境紛争からはじまった「ノモンハン事件」を知ったのは戦後(『検閲された手紙が語る満洲国の実態』小林英夫・張志強共編、小学館) のことである。
 軍部の情報秘匿で、一般の日本人のほとんどがこの事件を知らなかったのではないかと思う。

 志田さんら軍部の家族が早々と避難して行ったことを、ぼくの口から聞いていたら、牡丹江防衛につくなどしなかったのに、と後に叔父は悔しがっていた。
彼らの行動がそれほど重大な意味を持っているとも気づかず、ぼくは叔母や叔父らに話していなかったらしい。
 市民の動揺をふせぐために「一般邦人は命令あるまで避難してはならぬ」と言いながら、一方ではこっそり軍の家族を疎開させていたのである。
 軍部は、この場合、一般居留民を早手回しに安全地帯に引き揚げることは、軍の企図を敵に暴露することになり、ソ連の進撃を誘発することになると考えていたようだ。

 自分の認識の甘さを棚に上げて言うのもはばかれるが、
 (ノモンハン)紛争過程における関東軍司令部の最大の誤算が、ソ連軍に関する作戦参謀の甘すぎる判断であった。
 (中略)敵戦力を軽視し、強い先入観にとらわれ、自軍の戦力を過信する作戦が、うまくはかどるはずがなかった。(『関東軍と極東ソ連軍』林三郎著 芙蓉書房)
 このような思考は、ぼくらの頭の中にも沁み込んでいた。
 なんの知識も根拠もなしに、関東軍を過信し、ソ連軍の戦力を軽視していた。
 ついでに書き加えると、
 ノモンハン事件から得られた一つの教訓は、日本人は境界についての意識がきわめて薄い、ということであった。
 その理由は、単一民族のため種族間、あるいは部族間の抗争の体験がなかったこと、周辺を海に囲まれて境界線というものを肉眼で見たことがなかったことに、つきるであろう。(『ノモンハン 元満州国外交官の証言』北川四郎 発行・現代史出版会 発売・徳間書店)

 間の抜けた「警戒警報」

 昼ごろになると、
 市長から、「邦人は婦女子にかぎり隣組単位で避難するよう」勧告があった、と叔父が連絡に戻って来た。
 新京方面へ避難することになるらしいので大切な家財道具は防空壕の中に隠して置くよう言い残し、再び出かけて行った。
 避難命令が下されると、官舎の中はいっぺんに落ち着きを失い、ざわつき始めた。
 夫を送り出した主婦たちは不安で家の中にジッとしては居られなくなったらしく、家の前に集まり、これからどうなるのか、あれこれ話し合っていた。
 遠くから爆弾の破裂音とともにソ連機の爆音が近づいてきた。
 空襲警報の予告はなかった。
 表にいた叔母たちは大あわてで防空壕に逃げ込んだようだ。
 家の中にいたぼくは、わざわざ防空壕まで避難するのが億劫でその気になれなかった。
 どこかで爆弾が炸裂すると、窓ガラスがビリビリと振動した。
 ぼくはその振動に、少々おびえながらも、関東軍の防空体制を信じていた。
 ソ連機が飛び去ってしばらくすると、かけっぱなしだったラジオが突然、
 「牡丹江方面空襲警報発令」
を報じた おや、またソ連機が来襲してきたのか。それともソ連機のスピードがあまりにも速かったので警報が遅れたのか、などと考えていると、
 今度は「空襲警報解除」を告げた。
 後手後手の報道を聞いていると、いままで信頼していた防空体制が急に不安になった。
 次に空襲があったら防空壕に飛び込もうと決めた。
 実際には前線との通信が途絶し、しかもソ連軍の戦闘機は国境を飛び立つと牡丹江まで20分足らずで到達できる。空襲警報など出す余裕もなかったのが本当のことらしい。

第1部 運命、それぞれの岐路(14)

2006年07月17日 20:28

 車窓から海林駅で下車

 秀子叔母(25歳)たちと一緒に牡丹江駅で待機している避難列車に乗った。
 割り当てられたのは客車だった。
 2歳の長男を抱いた叔母とぼく、その向かい側の座席には年配の奥さんと新婚ほやほやのご婦人が座った。
 夫が特務機関員の新婚さんは、「あの人が牡丹江防衛に残されたまま別れていくのが悲しい」と目頭をハンカチで押さえすすり泣いていた。
 横に座っていた奥さんと叔母が、「ほんの少しの間だから」、「またすぐ牡丹江へ戻って来るのだから」、としきりに慰めた。
 まだ、日本人のほとんどが避難は一時的のものと安易な判断をしていた。
 列車はなかなか発車しない。
 車窓からぼんやり外の景色を眺めているうちに、「牡丹江防衛のために残って戦うんだ!」と、意気込んでいた同級生たちのことが思い浮かんだ。
 「敵前逃亡!」、「卑怯者!」の言葉が、ぼくの頭の中を交錯する。
 いま、この避難列車から降りて寮に戻り、皆と一緒にソ連軍と戦ってみたいという衝動にかられた。
 だが、それを口にすれば叔母に「とんでもない!」と、たしなめられることは歴然としている。
 自分の頭の中だけにとどめておいた。
 列車内は、いつしかすし詰めの状態になっていた。
 夕刻近くなってやっと駅を出た。
 間もなくすると列車は海林駅に停まった。
 叔母は駅員に、海林の日本人の避難状況を尋ねた。
 「海林の日本人の避難は明日からです」
 軍事郵便所の人たちも、まだ避難していないことが分かった。
 叔母にうながされ、ぼくはギュウギュウ詰めの車窓から駅員の手を借り、雑のうを肩にかけたままホームへ飛び降りた。

 「なぜ、さーちゃん(ぼくのこと)を海林なんかで降ろしたんだ!」
 後日、叔母は新京で再会した叔父から叱責されたそうだ。
 「駅員にしっかり確かめてから降ろしたんだから、絶対、大丈夫よ!」
 叔母はそう言い返したとか。
 「もし、あそこであんた(ぼく)を降ろしとらんかったら、お姉さん(母のこと)らはみんな満州で死んでいたんよ」
 戦後、岡山弁混じりになった叔母の言う通りであった。
 その後の母とぼくたちの逃避行を振り返れば……。
 

 満洲最後の散髪

 軍事郵便所には、各部隊から兵隊が郵便物を受領に来る。
 そして、郵便物の仕分け業務なども手伝う。
 ぼくが帰宅すると、郵便所で業務を終えた郵便受領の上等兵が、目の前のわが家へ顔を出した。
 召集前までは床屋をやっていたとかで、ぼくの頭を見るなり、母に家のバリカンを持ってこさせた。
 本職だけあって父のように髪の毛を引き抜くような手荒なことはしない。
 痛さで顔をしかめることもない。
 もちろん虎刈りになるはずもなかった。
 久しぶりに本物の床屋にかかり気分は爽快だった。
 これが、ぼくの満洲で最後の散髪だった。
 父(38歳)は、朝鮮の京城(現ソウル)へ出かけたままだった。
 目的は京城で一家を構えていた33歳の弟・清に招集令状がきたため、妻子や同居していた祖母たち一族郎党を満洲に連れてくるためである。
 満洲は食糧事情や生活物資の面で内地や朝鮮ほど困窮していない。
 特に軍関係者は満洲在住の民間人に比べても恵まれている。
 そうした事情もあって、わざわざ内地の家族を満洲へ呼び寄せる人たちもいた。
 同級生の中にも空襲の激しい東京から、4月早々転校してきたOがいる。
 国境守備隊長の父の元に転居していた彼の母と姉は、生死不明のままである。
 元関東軍報道部長だった長谷川宇一氏の手記「栄光消ゆ」(『秘録大東亜戦史(満洲篇)』富士書苑)の中に、次のような述懐がある。
ソ軍の進駐が必至であると断定し確信していたわけではない。心中ひそかに、その進駐を望まぬところから、少なくともこの冬を持ち越すもではあるまいかという希望的観測も手伝ったわけである。
 (中略)関東軍作戦課が命じた国内防衛の諸施設の完了期は、最初は10月となっていたと記憶している。こういう具合だったので、(中略)私はあの終戦の(昭和20年)4月に、東京に残しておいた母を、新京に招(よ)んだのである。
(中略)母は敗戦後引揚げの途中、平壌で死んでしまったが、母を殺すに至った事の不幸の罪は免れないが……
 関東軍司令部の中枢部にいた高級将校でさえ、このような過誤を犯している。
 
 わがままな祖母(57歳)や肺結核を患っていた清の妻ヨシエ(30)、それに学齢前の長女。父の妹の三枝(27)は夫が出世し、男の幼児を抱えていた。

〔前列左より、母、勝三(生後3カ月)、本人(小1)、兄(小4)、ヨシエ(清の妻)
後列左より、秀子叔母、清叔父、三枝叔母 昭和14年5月、京城の写真館で〕

 もし、叔父の召集令状が1週間ほど早いか、ソ連軍の攻撃開始が当初の基本計画どおり8月22日から25日の間であったとしたら、わが一族郎党は悲惨な運命にほんろうされていたであろう。
 Xデーを9日に早めたスターリン大元帥の絶対命令が、わが家にとって不幸中の幸いだったといえるかどうか。

 避難列車の出発は明日の午後3時、一家族あたり柳行李(やなぎごうり)2個まで列車に積むことができるという達しがあった。
 散髪が終わると、ぼくも母の避難準備を手伝った。
 国民学校1年の勝三(かつみ)と晋(すすむ、生後1年5カ月)、年子の修(おさむ、同10カ月)の弟3人も、ただならぬ気配を感じとったのか、ぼくたちの行動をそばで神妙に見つめていた。
 
いまでも残念でならない覚えが一つある。
 アルバムを行李に詰めるときだった。
 写真は「はがして手元に…そのほうが安全だ」
 そんな指令が突然、ぼくの頭の中をかすめた。
 だが、なぜかとどまってしまった。
 結局、行李はその後一度も開けることもなくソ連軍の手に渡った。
 彼らに日本人の見知らぬ子どもの写真など関心はなかったろう。
 アルバムから散乱した写真は、ソ連軍兵士の靴で踏みにじられ、哀れな姿をとどめていたのではないかと想像する。
 
 勉強はできず、おっちょこちょいで注意力に欠けるぼくは、父や兄にいつも「ぼんくら頭」呼ばわりされていたが、その代償として霊感というのか、無知だからこそ得られる予知能力のようなものが働くことがままあった。
 
 円明校4年のときだったと思う。
 40人ほどのクラスに運動靴が2足配給になった。
 先生は、くじ引きで決めることにした。
 ぼくの番になると迷わず左から2番目の線を選んだ。
 絶対にこれだ!
 確信した通りだった。
 子どものころは「誰にでも、そのような経験はあるよ」、と言われればそれまでだが。

 ともかく、この時は不覚だった。
 その後の放浪生活を考えれば、内地まで写真を持ち帰れたかどうか分からない。 だが、可能性はゼロではなかったと思う。
 思い出深い石門子校の写真を含め、すべての写真を失った。

 話はもどるが、ぼくが父や兄に馬鹿にされるのは仕方なかった。
 石門子へ転校する5年生の秋まで、2ケタの掛け算や分数の計算も出来なかった。
 本屋で父から貰った1円札を手のひらににぎったまま、あれこれ本を探しているうちに失っていることが数回あった。
 一緒にいた母や兄が平積みの本の間を探してくれるが、もう遅い。
 いつも、それに似たようなことをたびたび繰り返していた。
 算数は、石門子で三浦先生から丁寧に教わり、少しは分かるようになってはきたけれど。

 海林飛行場の施設を爆破する音が間を置いて轟(とどろ)いていたが、夜になるとソ連軍の大砲の砲弾が近くに飛来しているようで、ますます人心を不安に陥れた。
 母は、ソ連軍がすぐそこまで迫って来ているかのような錯覚にとらわれたのか、軍事郵便所のほかの家族(といっても婦人2人と幼児1人)を誘い、大勢家族が住んでいる陸軍官舎で夜を明かすことに決めた。
 官舎は駅から離れた反対方向にある。
 わざわざ駅から遠くへ向かう母の気持ちが分からなかった。
 その途次も飛行場の方から爆破音が間歇的に耳を襲った。
 年子の弟を、母とぼくは1人ずつ黒い帯で背負っていた。
 悲壮な顔つきになって歩いていた母が、いまの自分たちと同じような場面を「ニュース映画で見たことがある」と口にした。
 ヨーロッパ戦線の緒戦で、ドイツ軍がフランスに猛攻撃を下していたころのフィルムだろうか。
 母の貧しい想像力の中で、ドイツ空軍の爆撃や砲弾に追われ、逃げまどうフランスの民衆と重なり合ったのであろう。
 臆病風に吹かれ、気が動転しているかに見えた母が、自分たちの現状をどこか客観的に眺めている。
 ぼくは不可解な思いで聞いていた。


(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

第1部 運命、それぞれの岐路(15)

2006年07月21日 16:52

 残留寮生たちも転進

 8月12日。ぼくや叔母の乗った避難列車が発車した後の牡丹江駅構内の惨状や混乱ぶりを、ぼくは知らない。
 その人の居合わせた場所や時間のちょっとしたずれで、様相が激変し目撃体験がかくも違うものなのか。
 この日その時刻に、その人が居合わせた現場の様ざまな情景を、次の著者の手記から引用する。
 12日、午後2時を過ぎたころだろう。
 私たちは構内の後方に待機している客車だけで編成された、1本の列車を発見した。
 みると、腰掛に2人掛けで充分の余裕がある。
 私たちが列車に乗り込もうとすると、なかからはしっかりとドァーを閉じて開けてくれない。
 「この列車は桂木斯(ジャムス)からきたさいごの疎開列車で、満鉄社員専用のものだ。一般人はのせない」
 この時1人の憲兵上等兵が飛びあがって、大きな声で怒鳴った。
 「それでも日本人か。なにが満鉄の疎開列車だ。乗せないというなら、貴様たち全部を引き下ろすぞ……」
 一瞬しんとしてひとりが不承不承ドァーを開けた。
 私たちは列車に飛び乗った。
 他の一団二団もそれぞれ乗車して、たちまち車内は、身動きもできない始末となった。
 私たちの列車が動き出したのは午後5時を回っていただろう。
 列車が拉古(ラコ)のあたりをすぎたころ、車窓から頭を出して遠ざかりゆく牡丹江の空を見た。
 火を放ったのだろう、第二新市街の軍衙(ぐんが)あたりに幾条もの煙が立ちのぼり牡丹江さいごの日を悲しくいろどっている。(『秘録大東亜戦史 満洲篇』(富士書苑発行)「歴史の足音」福沢卯介著より)

 <八月十二日十五時三十分、東満総省次長ヨリ牡丹江地区強制引揚命令アリ、ヨッテ学徒隊ニ対シ新京地区転進下令。本校ハ依然星輝寮ニ籠城シ、最期ノ一戦ヲ図レルモ命下ルトコロ躊躇逡巡ヲ許サレズ。校旗ノモト百二十名(外に家族四十三名同伴)急遽転進準備ヲ整ヘ、十六時校門ヲ進発ス〉
 
 最後まで残って牡丹江防衛にあたると意気込んでいた残留寮生と教師たちは、東満総省次長よりの「強制引き揚げ」の命令で新京地区へ転進することになった。
 牡丹江駅に近づくと、今まで見たこともないものすごい群集であふれ返っていた。
 駅の構内や線路の脇には、あちらこちらに物資がうずたかく野積みにされ、その陰に幼児の遺体が横たわっていて、閉じた眼(まなこ)や、口の周りには、既に蝿が群がり、時折白いのが見え、思わず目をそらしてしまった。
 私たちは、駅構内の引込線の線路上に止まっている客車の近くで、長い間次の命令を待って待機していた。
 客車の周辺に次々に押し寄せる群衆に、銃剣を構えた兵士が客車の昇降口と連結器の間に点々と立って、近づく者は一歩も入れまいと凄い形相(ぎょうそう)で威嚇(いかく)していた。
 やがて、陸軍少将の襟章を着けた軍服姿の校長の訓示があり、
 「よいか! 全員、どんな事をしても、絶対に目の前のこの列車に乗り込め!」
(上の写真は『満洲慕情 全満洲写真集 満史会編』 満鉄の機関車・謙光社)

 校長や軍の派遣教員が一斉に抜刀するのが見えた。
 そして銃剣で警護している警備兵たちに向かって大音声で、
 「陸軍少将宇高黆(たけし)! 命令だ! そこを退(ど)け! 皆突っ込めー!」
 「ワーッ!」
 号令一下、生徒隊は鬨(とき)の声を上げて列車の窓や乗降口に殺到して行った。
 すると警備兵たちは、急に後ずさりして姿が見えなくなった。(『星輝中学校同窓会誌』「昭和二十年夏」M・T(当時3年生)著より)

〈発車著シク遅延シ、二十二時ニ至ル。折シモ避難民殺到シ、且ツ官街・会社等ノ焼焔天ニ柱シ凄惨ナリ〉
            
 満員の避難列車の通過を見過ごし、最終列車に乗車が決定したのは駅に到着して6時間後の22時ごろだった。
汽笛を鳴らして機関車2両連結の長い列車がホームに入った。
 「列車に乗り込め!」の命令で、われ先に乗車しようとするが列車内には、人と人とが重なり合い、とても中に入り込む余地はない。
 派遣教諭は大声で、
 「乗車! 乗車!」
 と叫ぶ。
 どのようにして乗車したか分からない。
 人の上に乗っかる形で息苦しい車内に割り込んだ。(前掲同窓誌『昔日の残考』O・T当時3年生)
                
  圧死した教諭の2人の幼児

 八月十三日(月曜日)

〈十八時ハルピン駅着。雨シキリナリ。満鉄社員倶楽部ニ宿営(M教諭 家族ノ事故ニヨリ横道河子下車)ヲ除キ異常ナシ〉。
 牡丹江駅で深夜便乗した避難列車の中で、M教諭(満洲語・音楽担当)の2人の幼児が、車内に殺到した避難民と荷物が折り重なり合い、座席の間で圧死する不幸があった 悲嘆にくれた教諭夫妻は、子どもを荼毘(だび)に付すため、途中停車した横道河子(オウドウカシ)駅で下車された。
他の先生がたが、
 「とにかく、ハルピンまで乗って行って、それからにしては」
と強く引き止めたが、
 「どうしてもここで降りる」
 と聞き入れなかったそうだ。

 
(写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』 毎日新聞社)


第2部 逃避行、見えない馭者(1)

2006年07月26日 16:48

 不気味な見物人たち

 海林駅に仕立てられた避難列車に、ぼくたちは乗り込んだものの予定の午後3時になっても一向に発車しない。
 列車はハルピンを経由して新京に向かうのだと聞かされていた。
 何両編成だったか記憶にないが、長い列車は2両(?)の客車のほかはすべて貨物車だった。
 一部の殿(しんがり)部隊を残し、部隊長以下、梅林航空隊に所属する軍人軍属とその家族全員が乗った。
 総員何百人になるのかしらないが、列車にはこれらの人員を1年間まかなうだけの充分な食糧が積み込まれているという。
 客車は部隊長ら将校が1両、その家族がもう1両に乗り込んでいた(?)。
 軍事郵便所は軍属あつかいで、テントでおおった無蓋車が割り当てられた。
 車両の屋根の上には、丸めたセンベイぶとんとデコボコの鍋、やかんなど世帯道具一式を背負った貧しい身なりの中国人家族が、連結器には手ぶらで身軽そのものといった単身の中国人が陣取っていた。
 日本人の駅員や軍の関係者が、それを見とがめて追い払う。
 追っ払われたその時はしぶしぶ列車を離れるが、しばらく経つとまた元の状態に戻る。
 ハエを追い払うのと同じだった。
 繰り返しているうちに、追い立てる側も根負けしたのか顔もにが笑い混じりになっていた。
 しまいには、駅員や兵士たちは退屈しのぎにやっている風にさえ見えてきた。
 このように戦火を避けて逃げようとする身軽な中国人たちとは対照的に、物見高い中国人たちがホームの鉄条網の外に群がっていた。
 両腕を胸の前に組み、薄気味悪い笑みを浮かべ、悠然とした構えで日本人の避難の様子を見物している。
 避難する中国人たちに比べると、こちらは一様に身なりもよく裕福にみえた。
 日ごろ民族的優越感から尊大に構えていた日本人の浮き足立った様を、せせら笑っているかのようだった。
(右上の写真は『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集』「見物人 吉林で」(晶文社))

 彼らの笑みには、われわれ日本人が去ったあと、残された家財道具など一切合切を略奪するもくろみを含むニュアンスもあったのだろう。
 昭和19年春ごろには、中国共産党工作員は日本軍の戦況を中国人に伝えていたから、中国人は大本営発表を信ずる日本人より、日本の戦況、つまり敗戦の近づきつつあることを知っていた、という。
 この日の午前中、時間を持て余したぼくは、海林の街をぶらついた。
 目的もなく歩いていると、海林国民学校で同級だった生玉(いくたま)が家の前に落ち着かない様子で立っていた。
 「いつ避難するの」と尋ねると、「一般の民間人は明日(14日)」だという。
 不安そうな彼の顔を見ると気の毒で、ほかに話すこともなく、すぐ「さよなら」した。
 近隣の家が中国人だった彼の動揺した様子は、ぼくらより切実だったからだろうか。
 夕方、日が沈みかけるころになってようやく列車は海林駅を出た。
 ぼくたちの乗ったテントの無蓋貨車には、20歳前後の若い女子軍属(軍の女子事務員や看護婦など)が5、6人同乗していた。
 女子軍属は男子の制服同様、草色がかった上着とズボンで、頭に戦闘帽だった。
(制服は男物に比べ小ぶりだったが、ズボンが前開きになっていたかどうか気がつかなかった)。
 列車が動き出すと、彼女たちはまるで修学旅行気分で、はしゃぎだした。
 そのころ流行の「ラバウル小唄」を文字って、
 ♪さらば ハイリンよ また来るまでは しばし別れの涙がにじむ
 テントの前方に集まり、外に向かって合唱を始めた。
 なんとなく哀調を帯びたメロディーなのだが、彼女らの歌声は明るく、悲壮感どころか感傷のかけらも感じられなかった。
 彼女たちだけでなく、ぼくたち誰もがこの避難は一時的なものだという思いが、いまだに強かった。



(上の写真は『戦記クラシック 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社より)


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