第6部 戦後の開拓地で(4)

2007年05月27日 15:44

 入植初期の心象風景

 60年経った今でも、瞼(まぶた)に映ずることのできる情景がある。
 用倉という開拓地に入植した初期のころである。
 父母は芋がゆなどで朝食を終えると、そそくさと開墾作業の身支度を整え、外から声がかかるのを待機の姿勢で待っていた。
 声がかかると即座に家を飛び出し、人間の足跡で出来た細い道を進む一列縦隊の背後を小走りで追いかけた。
 隊列は歩を緩めることなく、その日の開墾予定地への道順に従い、初めに家を出た人が次の家の前で声を掛け、さらに次の家へと進み、黙々と連なっていく。
 男は戦闘帽、肩には扇型のクワやオノをかつぎ、腰には鞘(さや)に収めた伐採用のノコギリとナタを紐で吊るしている。
 「開墾七つ道具」ともいうべき装備である。
 女たちは姉(あね)さん被りにモンペ姿。肩にはやはり扇形のクワ、手には下刈り用のカマを持ち隊列の中に混じっていた。
 扇形のクワは、開墾用に作られた特製のものでかなり重量があった。
 その後ろ姿は、戦前の社会的地位や生活基盤を失い、裸一貫で入植した人たちのスタートを彩る原風景であった。
 父母が開墾に出かけると、わたしひとり家に取り残された。
 病み上がりで何も出来ないわたしは、そのたびになにかしら焦燥感にかられるのだった。
 新聞やラジオのマスコミ情報だけでなく、個人と個人のミニコミ情報に接することもない、情報を閉ざされた空間で生存しているのは辛いものである。
 将来の展望も希望も探りようがないのだ。
 家の壁の隙間に貼られた古新聞に、炭坑の坑夫募集の求人広告があるのを見て、家を飛び出し、応募してみようかと考えたこともある。
 炭坑の仕事がどんなに過激な労働か、世間知らずのわたしには分かっていなかった。
 肋膜炎を患っている少年を雇ってくれるわけはないが、ともかく思いとどまった。
 わたしに出来る仕事といえば、家の前の開墾したばかりの畑に入り混じった細い木の根や、石ころなどを取り出すことくらいだった。
 それでも、畑の中にたたずんでいると、ふと、自分はいま「故国」の土を踏んでいるという安堵感に包まれることがあった。
 そして、ほんの2カ月ほど前まで踏んでいた満州の土は「異国」のものだったのだ、と。



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