第6部 戦後の開拓地で(2)

2007年05月18日 14:46

 広島空港に変貌した開拓地

 元用倉開拓地の原風景は、近代的な広島空港ビルや長大な滑走路と周辺地区に新たに設置された付帯施設などによって、完膚(かんぷ)なきまでに変貌した。
 特に東西に走る滑走路は、下の縦断面図に見られるように高低差の激しい地形を均した上に乗っかっているのだ。 「用倉に空港ができる」と初めて聞いたとき、あの山の上の丘陵地に「飛行場など出来るはずないじゃないか!」と、わたしは一笑に付していたものだ。
いま目の前に見る土木技術の水準の高さは、門外漢のわたしを驚嘆させる。
戦後、日本列島の至るところで古里は激しく変貌しているが、これほどドラスチックな変容を遂げたところは少ないのではなかろうか。
60年前にわたしたち一家が住んでいた場所は、滑走路の右先端近くのグリーンの下にすっぽり埋もれている。
 かつて、ドラム缶の風呂に浸りながら眺めた、向かい側の小高い山、その松林の茂みの合間から緩やかに昇る月影、谷間をちょろちょろ流れるせせらぎの音。
中学3年生だったころの記憶につながる風景や地形や音は、見事に抹殺されている。
  ひとっ子ひとり通らない、夜の静寂に包まれた山の中で、人跡でできた細い道に沿って走る小川のせせらぎの音を聞きながらの一人だけの入浴。
 いまならさしずめ風流、風雅のひと時と言えそうだが、当時はそんな心境に浸るゆとりなどなかった。
 いつになれば飢餓から脱却できるのか。
 雨漏りのしない電灯と畳の上での生活に戻りたい、それが当時の強い願望だった。
 その見通しすらつかない、山の開拓地での暮らしは、ただ絶望感を募らすだけだった。





 国有林を追われる
 
 滑走路の下に埋もれた元のわが家一帯は北方村の村有林で、再入植した場所である。(下図、右端の池の上方辺り)
 父が最初に入植した地区は国有林だった。
 村有林に移り住むことになったのは、おそらく昭和23年の5月下旬か6月に入ってからだろう。
 ある日の夕方近く、炭焼き窯(がま)の中で炭にする生木を詰める仕事を手伝っていた。
 そこへ、国有林の用倉組合長とその弟の2人が入ってきて、父を外に連れ出して行った。
 しばらくして戻ってきた父の顔が、強ばっているのが薄暗い窯の中でも分かった。
 おそらく、顔色も血の気が引いて青白くなっていたであろう。
 父はわたしには何があったか一切しゃべらず、ただ黙々と生木を釜の中に縦詰めしていった。
 組合長兄弟の突然の訪問は、父に一家の立ち退きを命じに来たのだった。
 わたしたち一家は、入植して一年半にわたって開墾した土地や掘っ立て小屋の住家など、すべてを残し、同地から放逐されることになった。
 父は元支那(現中国大同)の外務省領事館付警察官であった組合長兄弟とは、前々からそりが合わず、組合の運営方法などにも、さまざまな確執があったようだ。
 組合長兄弟が国有林の入植登録第1号で、次が父と聞いている。
 不惑手前の父より、年は若かった。
 得てして、人間同士の確執は、そんな瑣末な事柄から発することもある。
 それはともかく、追放される決定的な原因は、父が農繁期に本家の河戸に手伝いに出かけ、組合の共同作業には母を出していたことにあったようだ。
 本家には祖母と学齢前の長男を抱える父の妹が、京城から引き揚げて以来、ずっと居候していた。
 さらに本家では一粒種の長男が戦死しており、農繁期には男手が足りず父が頼りにされていた。
 そんな事情を抱えていたとしても、非は父にあることは確かである。
 あれは学校からの帰り道だった。
 わたしは、村の農家で分けて貰ったサツマイモの入った袋を背負子に乗せ、その重さでうつむき加減に坂道を登っていた。
 用倉組合の男たちが、山道の側溝掘りの作業をしていた。
 その横に差し掛かると、
 「こら! おどれ(お前)、ご苦労さんの挨拶ぐらいして通ったらどうなら! おどれの足、このスコップでへし折っちゃろか!」
 鋭い罵声が飛んできた。
 声の主は、いかつい体つきの組合長の弟だった。
 作業をしている男の中に、父の姿は見当たらなかった。
 数日後、梶本君(前述のK君)のお母さんが母を訪ねて来た。
 「いまからでも遅うないけぇ、組合長さんの所に行って謝ってきんさい。徳広君が可哀そうじゃけぇ。うちの子がそう言うんよ」
 罵声を浴びて以降、わたしは組合の男たちが作業している道を避け、細い山道を迂回して帰宅していた。
 そのことを梶本君は、彼のお母さんに話したのだ。
 「(初代の組合長兄弟に)ここから出て行ってくれ! 言われたときは、これからどがいしょうか、ほんまに悩んだよ」
 後年、父は広島弁で述懐した。
 結局、最後の選択肢は村有林に入り、開拓生活から抜け出すことはしなかった。
 それにしても“村八分”ならともかく、組合員の生殺与奪の権を一組合長が握っていたとは。
 さらに不可解だったのは、村有林にいた人がわたしたちの跡地を譲り受け、そのまま用倉組合の理事に就任していたことである。


(写真や図は『HIROSHIMA AIRPORT 夢・未来 庭園都市』(広島県空港港湾局空港対策課)、『新広島空港の開港に向かって』(運輸省第三港湾建設局)等より)




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