引き揚げてはきたものの(あとがきに代えて)

2007年01月31日 21:51

 秋まつりと「リンゴの唄」

 四国の高松駅に停車していた機関車は、満洲の機関車に比べあまりにもちっぽけだった。
 マッチ箱のような汽車に乗り、高徳線のほぼ中間あたりの丹生(にぶ)駅で下車した。 
 プラットホームに降り立った人影は、みすぼらしい姿のぼくたち母子3人だけだった。
 小さな田舎駅には駅員が1人いた。
 引揚者であることはひと目で分かるらしく、ぼくたちに気を使ってか、それとも見るのが忍びないのか、そ知らぬ顔でほうきとちり取りを手に駅舎の中をセッセと掃いていた。
 改札口を素通りし、駅舎を出ると、母はしばらく立ち尽くしたままになり、一歩踏み出すまでにしばらく時間がかかった。
 36歳になる母は、故郷を離れてどれほどの歳月を経たのだろうか、さまざまな感慨が全身を駆け巡っていたに違いない。


街道に出ると威勢のよい奴(やっこ)さんを先頭に、大名行列が道一杯に練り歩いていた。
 夜は村の青年団が主役の芝居があった。
 巷(ちまた)には、
 ♪赤いリンゴに唇よせて 黙って見ている青い空
 並木路子の「リンゴの唄」が、あふれていた。
 昭和21年9月の下旬、母の生まれ故郷である香川県丹生村は、ちょうど秋まつりたけなわだった。
 母の実家は小さな瓦屋で、母の弟が家業を継いでいた。
 その弟のもとへは、「母が帰国した時は連絡頼む」と父から手紙が来ていた。
 数日すると、1年前に広島県の本籍地に引き揚げていた父が、ぼくたちを迎えに来た。

(写真はすべて『在外邦人 引揚の記録 <写真集> この祖国への切なる慕情』毎日新聞社より)

[写真のキャプション <少年>(21年7月 コロ島埠頭にて)満州の曠野をどのくらい歩いたろう 建物のかげに腰をおろすと これからのことよりも 途中で別れてきた父母のこと友だちのことが頭の中を占領する。
<少女>(21年7月 コロ島にて)まだよちよち歩きの妹を救うものは私しかいない まわりの大人たちも自分のことだけで精一杯 満州の真夏の太陽は強く 日よけの笠は命を守る道具だ。
<21年7月 コロ島桟橋にて>炎天下に乗船を待つ 中共兵の銃剣が 真夏の太陽にピカリと光る 両手に持てるだけの荷物は許されたが いつ「その荷物を開け!」といわれるかわからない 「こんどの船にこそ私たちは乗れるだろう」]


 肋膜炎発病、そして開墾地へ

父は朝鮮の京城(現ソウル)に住んでいた祖母をはじめ父の弟や妹一家の大人と子ども総勢8人の一族郎党を引き連れて、敗戦1カ月後の9月に本籍地である広島県の河内町河戸に身を寄せていた。
 満州航空へ勤労動員で出動していた兄は、引率の先生や同級生らとともに内地に帰国。ぼくたちよりひと月前の8月、本籍地を頼りにたどり着いていた。
父に連れられ本籍地の河戸に着くと、すぐ翌日、祖母に命じられ、里山へマキをとりに行かされた。
 兄と2人、初めて見る背負子を背に焚き木を何往復か運んだ。
 その日の深夜になって、ぼくが高熱を発し、うなっている症状を見て祖母は、
 「こりゃあ、肋膜じゃ」
 即座に明言した。
 翌日、隣村の医者まで連れられて行かれたが、そこでの診断結果も「両方の肋膜に水が溜まっている」だった。
 ハルピンの中国人の印刷屋で満タンの水桶を運んでいた時、背中にズキンと痛みが走り、息が止まりそうになったことがある。あれが前兆だった。
 祖母に「それをなぜ言わなかった」となじられた。
 「子どもは1日でも遊ばすと怠けグセがつく」
 勝手な持論を持つ祖母に、前もって伝えたところで、怠けるための口実としか受け取らないことは明らかだった。
 それまでにも、母には何回か症状を訴えていたが、「大げさな!」の一言で一蹴(いっしゅう)されていた。
 こんな時期に「病気になってもらっては困る」というのが本音ではなかったか。
発病後、数日寝込んでいたが父が帰国後入植していた開拓地へ連れて行かれた。
 そこは用倉山と呼ばれる標高300?の山林だった。

[上の写真のキャプション <船底での食事>それは喜びであり 充足であり 喧騒であった ひさしぶりの米の飯と わずかのおかずが配られ 脱出以来使いつづけてきた“はんごう”や“わん”にもられる 乳児には母親が米をかんでから口移しする]

 暗黒の生活からの脱出に丸3年

 住居は素人が建てた掘っ立て小屋だった。
 雨が降りだすと激しい雨漏りで床に敷いたムシロはずぶ濡れになった。
 冬はすき間風が遠慮えしゃくなく吹き込み、ペチカのあった満州の方が暖かかったあの時代が懐かしかった。
 もちろん電灯はない。夜は小皿から出した灯心の明かりに頼るが、灯油がもったいないのでめったに灯すことはなかった。
 電気がなければ当然、ラジオは聞けない。そして新聞も届かない(金銭的に余裕がない)。
 文明社会と完全に隔絶した山林の中での生活は、さながら原始時代に戻ったような感があった。
 父が開拓地に入植した理由は短絡的で、山林を開墾し種をまけばすぐにでも作物が育ち、食糧に不自由しないですむと思ったらしい。
 開墾したばかりの土地は不毛で、そこで育つような作物はなにもなかった。
 戦後失職した人たちの就業と食糧確保のためという国の「緊急開拓事業」だが、その安直なうたい文句につられて入植した父の思慮の浅さが恨めしかった。
 食糧確保どころか、配給されるわずかな米やサツマイモのつるの粉末、フスマ(小麦のかす)などでは空腹を満たせず、ワラビやゼンマイは言うに及ばず、食べることができると聞けば雑草や木の葉までも食糧の足しにする有様だった。
 敗戦後の満州でも、中国人の印刷屋や八路軍の被服廠には電灯もあったし、雨漏れもなかった。
 そして月に一度は真っ白な饅頭と豚汁を腹いっぱい食べさせてくれた。
 もし、父の京城行きがソ連軍の侵攻より数日前か後にずれていれば、いまごろはソ連に抑留の身となっていたはずだった。
 自分は「悪運が強い」と言うが、ぼくらにとってはいつ抜け出せるともわからない暗黒の時代だった。
 四国に引き揚げたときには、高松かどこか近くの中学校へ編入するよう母に言われていた。
 兄は母の実家の瓦屋が忙しくなったので手伝いに行かされていた。
 ぼくも今ごろは瓦焼きを手伝いながら中学校へ通学していたはずだった。
 もともと勉強は嫌いだったから、学校のことはどうでもよかった。
 それよりも、雨漏りのしない、電灯と畳みのある生活に戻りたいというのが、当時の切なる願望だった。
 その願望がかなうには、昭和24年4月に広島県三原市にあったM重工に入社し、10月に入寮を許可されるまで、丸3年の歳月を要した。
 作家の坂口安吾が「親がなくとも子は育つ」はウソだ。「親があっても子が育つ」だ、と何かに書いていたのを読んだ記憶がある。
 その時ぼくは、これは至言であると素直に受け止めることができた。
 帰国後、暗黒時代の一時期を過ごした戦後のふるさと用倉は、いまは広島空港に大きく変貌した。
 平成5年10月の開港以来、ジェット旅客機が頻繁に離着陸し、上空を飛び交う光景を目の当たりにすると今昔の感に堪えないものがある。

(同地方の新聞 平成7年6月24日号)


 <あとがきのあとがき>
1.哈爾濱の表記について
このシリーズでは一貫して「ハルピン」(ヒを半濁音に)の表記で書きました。
本来の発音は「ハルビン」(ヒが濁音)で、大正期の表記はそうだったようです。
それが満州国時代になって在留邦人は、「ハルピン」と半濁音で呼ぶのが普通になったとか。
それはともかく、「ハルピン」(半濁音)で通したのは、当時の臨場感を失わないためで他意はありません。
2.満人と中国人の使い分け
前半は「満人」、後半は「中国人」を多用しましたが、どういうわけか、後半は その方が書きやすかった、ただそれだけの理由です。


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