第5部 ハルピン浮浪(17)

2007年01月29日 17:16

 強靭な生命力とはかなさと

 珠河(シュガ)の被服廠からハルピンへ戻って住んでいた地区は道裡(ドウリ=埠頭区とも称し、白系ロシア人と日本人町)だった。
 同地区の引き揚げの日が決まると、母は新香坊収容所まで弟2人の墓参に行った。
 母が墓地に赴くと、広い畑のどの辺に晋と修を埋葬したか、まったく見当がつかなくなっていたという。
 新香坊の日本人墓地はどうだったかしらないが、春先の雪解け時期になると、凍土となっていた土饅頭の墓地も溶け、そこへ野犬が群がり、死体を掘り返しては食いちぎり、骨や髪の毛が散乱し、地獄さながらの様相を呈していたところがあったそうだ。
 新香坊の墓地もそうした惨状をなしていたかもしれないが、雪解けからずいぶん日にちもたっていたから、母の見た畑の光景はすべて風化していたに違いない。
 海林から新香坊の収容所まで一緒にたどり着いた人たちで、まだ収容所に残っている人もいたが、入所当時は足の踏み場もないほど混雑していた大部屋も人陰はまばらになっていたそうだ。
 陽気に民謡を歌い手拍子で、落ち込んでいる皆を励ましてくれたお婆さんと、いつも傍に寄り添っていた女学校を出たばかりの娘さんは、ともに越冬できず亡くなっていた。
 女子軍属を満人に売ろうとした、と噂された部隊長の奥さんの消息は、だれにも分からなかった。
  ぼくの憶測だが、あの噂は中傷で、女子軍属のひとたちはハルピンの日本人難民会を通して八路軍に徴用されていったのでは、と思う。
 看護婦の1人はハルピンの街中で、ぼくと偶然出会っている。
 八路軍の帽子を被り、赤十字マークのついた雑嚢(ざつのう)を肩に掛けていたから、八路軍の従軍看護婦に徴用されたのだろう。
  敗戦直後、ハルピンの馬代溝(マチャコウ)でソ連兵に陵辱された2人の女子軍属は、中国人の家の前で洗濯をしている姿を、母は見かけたという。
 それにしても酷寒零下30度を超える中で、暖房とてない収容所でよく越冬できたものである。
 生き残った人たちの生命力の強靭さに驚嘆するほかない。
 新香坊日本人収容所の畑に埋葬された遺体の数は、記録によると翌昭和21年9月の引き揚げ開始までに約3,400人に及んだという。
(上の写真2枚は『[満洲帝国]北辺に消えた“王道楽土”の全貌』学習研究社)


 引き揚げ開始、中国とアメリカの好意

 昭和21年8月19日にハルピン駅から、一般市内住留民と難民とを含む第一次引き揚げが開始された。
 この第1列車には、居住区別に2梯団(ていだん)乗車、1梯団の編成人員4千ないし5千名、(旧満鉄30屯積無蓋貨車1台に平均7、80名乗車)、その後、編成列車は隔日ごとにこの第1列車に準じて出発した。
 ハルピン駅構内から第一次引き揚げ列車が発車したのは8月19日、最終列車の発車は9月19日である。
 わずか1カ月あまりの間に、ハルピン市内居住者約7万人を含む約14万人の同胞が送り出された。(長谷川潔著『北満州抑留日本人の記録―五星紅旗の下で―』波書房)

(ハルピン駅構内『写真集 ああ北満 北小路 健編』図書刊行会)

 満州の邦人引き揚げ開始は昭和21年5月14日で、佐世保港に葫蘆(コロ)島から引き揚げ第1船、Q10五十八号が1219名の一般邦人を乗せて入港した。『敵中突破五千? 満洲暴れ者(もん)』(森川哲郎著、徳間書店)
 以下は、引き揚げ職員となった太田正氏(終戦時陸軍主計少尉)の著書『満州に残留を命ず』(太田正著、草思社)からの引用である。
 列車輸送は最初から渋滞につぐ渋滞を重ねた。そのため途中の主要な駅が溜まり場となり、その近くに収容所が設けられた。大きな溜まり場は、瀋陽、錦州、錦西の3都市にでき、港のある葫蘆島にも、船を待つ間の収容所が作られた。
 8月に入って、満州中南部における引揚者の移動は、大混乱におちいった。(中略)
 どうして、このような状態になってしまったのか。
 中国当局は、はげしい内戦下にありながら、日本人の引揚げを最優先として、最大の配慮を示してくれていた。(中略)
 このころ日本のラジオ放送は、満州からの引揚げが遅れているのを、中国側が抑止しているせいであるかのような当局者の発言を流していた。
 迎えの船の手配も、万全であると言っていた。
 そうした報道を、本部事務室に一つだけあるラジオで傍受するたびに、職員は政府の欺瞞に憤慨した。
 みんな港に船が入って来ない現実を、見て知っていたからである。
 在満日本人会の代表は、日本政府に対し援助を要請していた。
 引揚船の配給と、資金援助の2点についてである。(中略)
 それに対して、日本政府からの回答は、
 「すべて現地において調達せよ」
 という冷たいものだった。(中略)
 なお、ラジオ放送を傍受したところによれば、在満日本人の苦境にいたく同情したアメリカが、近くLST(上陸用舟艇)を葫蘆島に差し向けてくれるという。
 日本政府の冷淡さに引きかえ、中国とアメリカの好意が有難く身に沁みた。
 8月の末、なんの前ぶれもなくハルピンの引き揚げ大隊が、収容所に到着した。
(中略)この時期、満州では中共軍と国府軍が、天下分け目の一大決戦を展開していたが、両軍とも日本人難民の引揚げを第一義として、一時停戦を実現してくれたのであった。
 こうしたことは世界の戦史にもめずらしいことで、いつまでも心に留めて、中国に感謝すべきことがらである。

            ハルピンの風物写真

(キタイスカヤ街の人通り『写真集 ああ北満 北小路 健編』図書刊行会)

(日本人の女学生とロシア人親子、太陽島の小孩『満州昭和15年 桑原甲子雄写真集』晶文社)


(左上は「かっこいいロシア人の中学生」『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満州』毎日新聞社、左上は「スンガリーのロシア人」『哈爾賓物語』杉山公子著 原書房)
 ハルビンの学校は国立・市立・私立から成る。そのうちロシア人の公立中学校は白系と赤系に分かれていた。


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