第5部 ハルピン浮浪(15)

2007年01月22日 15:57

 若い恋人同士も逃亡に失敗

 引き続き、『満洲は春なお遠く 19歳の新妻が体験した敗戦の真実』より……。
 春から初夏へと移り変わろうとするころ、第一縦隊供給部に所属していた軍需科は、圖們(トモン)にある被服廠に合併されることになる。
 明日は圖們行きの汽車に乗ると決まった日、倉庫で働いていた白川君とミシン工の小田さんから、
 「出発のどさくさにまぎれて2人で逃げる」
 と打ち明けられる。
 出発の朝、供給部軍需科の一行は牡丹江駅の構内で、既に荷物が積み込まれている貨車に分乗。
 その間に白川君と小田さんは予定通り姿を消した。
 発車前に先頭の貨車から乗車人員の点検が始まり、やがて日本人ばかり乗った貨車の人数が2人足りないことが分かると、すぐ兵隊たちがあわただしく動き始めた。
 午前10時の発車予定が10時を過ぎても列車は動かない。
 張指導員が恐い顔をして乗り込んで来るなり、
 「白川と小田が逃げることを皆知っていたんだろう」
 と早口でまくし立てる。
 昼近くなって貨車の外に荷馬車が止まる音がして、のぞいて見ると逃げたはずの2人が後手にしばられたうえ、兵隊に縄尻をとられて降ろされるところだった。
 2人は引きずられるようにして貨車にのせられ荷物につながれて番兵がついた。
 夕方、圖們に着くとやっと2人の縄が解かれて解放され、男性たちは供給部へ女性たちは被服廠へと別れる。
 圖們被服廠には正規の軍工のほかに、民間工人と呼ばれる通いのミシン工が大勢働いていて、ボタン付け、穴かがりなどの手仕事をする女性たちもいる。
 軍工と呼ばれる者の中には15、6歳くらいの少年が何人もいて、ミシン工のほかはアイロンかけや半製品の運搬などの雑役をしていた。
 <珠河の被服廠で、ぼくらの班長だった中国少年は正規の軍工だったかもしれない。それで銃殺刑という重い処刑を下されたのではなかろうか>

(地図と圖們の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地[4]続満州』毎日新聞社)


 2度目の帰国もかなわず、2人の仲間とも離れ離れに

 3回目の終戦の日が過ぎた9月初め、
 「圖們吉林地区の老幼婦女子、病人など300人を北朝鮮経由で日本へ送還するらしい」という噂が流れる。
 著者の加藤百合子さんたちも、今度こそと期待に胸を弾ませ、帰国事務所にかけつけた。
 北朝鮮経由での送還の話は本当だったが、事務所にいた男は、
 「今度の送還の対象となる人は、年寄りや子どもづれ、病人に限られているから、元気で働いている人は問題外です」
 と全然相手にしてくれない。
 2度目の帰国もかなわぬことが分かる。
 10月も末になったころ、著者は被服廠から第38軍供給部縫工班への移動命令を受ける。
 その後、圖們被服廠はハルピン被服廠と合併することになり、川口さんと櫛田さんはハルピンへ移動、著者はここで2人と離れ離れになる。

 8年間夢見た祖国へ

 昭和28年5月、暮れ始めた車窓にぽつぽつと灯かりが見えるころ、汽車は光あふれるホームに止まる。
 駅は保定(ホテイ)。ここで初めて「帰国準備のために保定招待所に入る」ことを知らされる。
 その月の下旬、出国のための持物検査。 
 許可されて残ったのは3枚の写真と服の製図(右図)を書いた小さい手帳だけで、子ども(敗戦後の9月、避難先の東京城〈トンキンジョウ〉で出産、2ヵ月後に死亡)の形見の臍(へそ)の緒から、戒名を書いた紙、日記帳など中国での8年間の生活の記録となるものはすべて火の中に放り込まれ、見る見る白い灰になる。
 6月初め、出国を許可された者が天津市の国民飯店(ホテル)に移る。
 飯店の大食堂前は大変な混雑ぶり、その人ごみの中に敗戦以来苦労をともにし圖們被服廠まで一緒に暮らした川口さんと、牡丹江から圖們まで仕事仲間だった櫛田さんの懐かしい顔を見つける。
 昭和28年7月4日、中国の塘姑(タンクウ)の港に停泊している興安丸に乗船、8日に舞鶴の港につき、8年間夢にまで見つづけた日本の土を踏む。


(上の地図は著者が敗戦後の8年間たどった行程)




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