第5部 ハルピン浮浪(13)

2007年01月16日 10:18

 八路兵が称賛した岡野進こと野坂参三

 夜、ぼくたちの部屋に訪れてきた八路軍兵士が、「日本人にも頂好人間がいる」と言って2人の名前を挙げた。
 1人は岡野進で、もう1人は志賀義雄だったと思う。
 岡野進とか志賀義雄という名前など、ぼくは初耳だし、どんな人物かも知らなかった。
 だが、岡野らは日中戦争中に反戦活動で活躍した偉大な日本人だと称賛した。
 この兵士は共産党の宣伝と洗脳を兼ねて訪問して来たのだろうが、彼の話を理解するには言葉の壁が厚いし、しかも無関心のぼくには“馬の耳に念仏”でしかなかった。
岡野進が日本共産党創立当初からの幹部であった野坂参三の変名であると知ったのは、内地に引揚げて後のことである。
 野坂参三は昭和6年に亡命してモスクワに渡り、その後、延安に移って中国共産党の援助を得て日本人民解放連盟を組織し、岡野進という名前で活発な反戦活動を行っていた。
 それはそれとして、中国共産党やソ連軍にとっては協力的な頂好人間であっても、在満の同胞にとっては裏切り者に等しい人物であった。
 『敵中突破五千? 満洲暴れ者(もん)』(森川哲郎著、徳間書店)に書かれた関連部分を概略列挙すると、  
 昭和21年1月26日、東京の日比谷公園で「野坂参三帰国歓迎人民大会」が開かれた。帰国早々の野坂参三は、そこでおこなった演説で、
 「満洲に残っている日本人は、中国共産党およびソ連軍の庇護(ひご)のもとに、安全かつ何らの生活不安もない毎日を送っている」
 はるか何千?も離れた満洲鞍山市で、この演説をラジオで聞いた新甫(しんぽ)八朗(鞍山の株式会社新甫組社長34歳)は、わが耳を疑った。
 政府も国民もこれを信じれば、ますます満州の引き揚げは放置されるに違いない。
<野坂参三の帰国写真は『戦中戦後五十年』(朝日新聞東京社会部OB会=騒人社編)>

 こんなことでは、誰が在満日本人の惨状を内地に伝えてくれるのだ。日本本土からの救助の手は、永久に伸びてこないだろう。
 新甫は丸山邦雄(鞍山満州製鉄社員44歳)、武蔵正道(新甫組社員)と図って、「満洲からの引き揚げ促進運動と在満同胞の救済」を決意する。
 3人は国府軍と中共軍の大規模な内戦必至の情勢の中を、幾多の死線を越え奇跡的な満洲脱出に成功。昭和21年3月13日、3人は山口県仙崎港に到着した。
 その後、さまざまな弊害はあったが4月17日、NHK東京中央放送から「在満同胞の実情を訴う」という全国放送にこぎつける。
 そして、ついに4月18日、マッカーサー連合軍司令官の命令で、
 「在満日本人をコロ島から日本本土へ引き揚げさせる」
 と発表された。
 平成5年(1993)年になって、日本共産党の名誉議長野坂参三が、国外亡命中、同志である山本懸蔵を、己が生きるためスパイと偽ってスターリンに密告し、山本は非業の死を遂げたことが、ロシア側の資料で判明した。(『戦中戦後五十年』(朝日新聞東京社会部OB会=騒人社編、『野坂参三が帰国した日』村上寛治著より)
<鹿地亘の写真は『日中戦争の悲劇―写真で綴る中国からの証言』(柳原書店)>


 われらが班長と元開拓団女性3人の罪状

  ある日の夕食後、兵士を含め全員が営庭に集められた。
 集められた理由が分からないまま地べたに座っていると、面前に後ろ手に紐でくくられた男1人と3人の女性が連れてこられ、横一列並び立たされた。
 男はわれわれの班長。他の3人は元開拓団の若い日本人女性である。
ぼくの横に座っていた17、8歳の元義勇隊員は、「日本人の若い女が後ろ手に縛られている姿を見るのはつらいな」と、柄にもない言葉をつぶやいた。
 いつもは陰湿な目つきで、いかつく見えるこの男も、面前にさらされた同胞の姿を見るのは忍びないらしい。
 義勇軍では出身県別に中隊が編成されており、他県の中隊が別の中隊の宿舎に夜中に殴り込みをかける。こうした暴行が原因で隊員が負傷することはしばしばで、ときには死に至ることも少なくなかった、という。
 隣に座っている同室の元義勇隊員も、他県の中隊の宿舎を襲い相手を散々痛みつけたと、自慢気に話すので、てっきり気性の荒い男と思い込んでいたが、見かけによらない心の優しさをもっていた。
 八路軍の幹部らしき男が、3人の罪状を読み上げた。
 わが班長は被服廠の朝鮮人女性の幼女に、いま風にいえば悪戯(いたずら)をしたという罪、元開拓団の女性3人は被服廠から脱走した逃亡の罪である。
 班長の罪状は、まな娘が被害を受けたことを知った母親が激情にかられ、八路軍の幹部に訴えたことから発覚したもの。
 3人の日本女性の身分は八路軍の徴用者で、脱走すると逃亡罪にあたる。
 彼女らは、ハルピンで日本人の内地への引き揚げが始まるとの噂を聞き、脱走を企てたが途中で八路軍の追っ手に捕まったらしい。
 われらの班長は連れ去られていくとき、首をうな垂れ「スーラ(死)」と、小声を洩らしたそうだ。
 それを耳にした者がいて、「彼は銃殺刑になる」と言った。
 被服廠の母たち日本人は、内地への引き揚げの噂を知ると、矢も盾てもたまらず、八路軍にハルピンへの帰還を願い出た。
 母たちの身分は被服廠の募集に応募してきた単なる使用人となるのか、ハルピン帰還は簡単に許された。
 逃亡罪となった元開拓団女性は、その後どのような処罰を受けたかは知らない。
 彼女らのその後は、同様な体験記『満洲は春なお遠く 19歳の新妻が体験した敗戦の真実』(加藤百合子著、かのう書店)から、次回に類推する予定でいる。

(上の写真2枚は、『[満洲帝国]北辺に消えた“王道楽土”の全貌』学習研究社)


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