第5部 ハルピン浮浪(11)

2006年12月26日 20:34

 虱(シラミ)退治と夜の作業

 印刷工場では、就寝前の日課は虱(シラミ)退治だった。
 工場の壁面の一部が中2階になっていて、そこが印刷用紙などの倉庫兼従業員の寝床になっていた。
 住み込みの印刷工や榎木さんとぼくら10数人は、中2階の手すりを頭部に横一列にせんべい布団を並べて寝た。
寝る前になると全員が上半身裸になって枕元であぐらをかき、印刷機の上に吊るされた電灯の明かりに肌着をさらしてシラミ退治にかかった。
  10台ほどの印刷機は手すりの向こう側に平行に並んでいたので、横一列でも光線は万遍なくとどいた。
 光線の加減で縫い目に沿ってびっしり詰まったゴマ粒ほどのシラミの卵が、時には金色に光って見えたりした。
 ぼくの退治の仕方が下手なのか、徹底的につぶしたつもりでいても、明くる日の夜になると奴らはまた同じように勢力を盛りかえしていた。
 見かねた榎木さんが時どき加勢してくれたが、それでも日々の情勢に変わらなかった。
 猪口とぼくは一組の布団で寝ていた。
 ある晩、隣でなにかしらガサゴソやっているので、
 「何をしているの?」
 「これはセンズリと言って、とっても気持ちのいいもんなんだ」
 「そんなに気持ちいいことなら、ぜひ教えてよ」
 懇願すると、彼はちょっと面倒くさそうな顔で、ぼくのモノに手をやり、何やらいじくり始めた。
 そうしながら、ぼくにジャングイの2号さんの女の子を頭の中に思い浮かべろと言う。
 ぼくにとって、あの2人の女児はわずらわしい存在だった。
 水運びの時など、2人が重たい水桶を天秤棒でかついでいるのに、ぼくの腰辺りにじゃれついたり、まつわりついてくるのだ。
 それでなくても鉄桶の水の重さでふらつき加減なのに危なかしくて仕方がない。
 やんちゃな女児どもは、ぼくを組みしやすと見透かしているのか、猪口にはいっさいからまったりしないのだ。
 時にはぼくをはやしたてながら、ポンポンと叩きにきては逃げていく。
 あまりにしつこいので足を使って後ろ向きに軽く蹴返したことがある。
 工場の入り口あたりに入ってからなので、2号さんと太々に見つからないつもりでいたら、2人はちゃんと目撃していたらしい。
 以来、ぼくの評価は頂好(テンハオ)から不好(プウハオ)小孩になり下がった。
 そんなことを思い浮かべていると、
 「君には、まだむりだ!」
 猪口はあまりにもあっさりとサオを投げ出した。
 ぼくはとっさに現実にもどった。
 彼の教え方は真剣みに欠ける、もっと根気よくあってしかるべきではないか。
 未練がましく首を横に向けると、すでに己の作業に夢中になっていて取りつく島もなかった。
 ぼくはうらめしく思いながら「仕方がない」、1年後、彼のようにニキビが2つ3つできるころまで待とうとあきらめた。
(上の写真は『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集』(晶文社)


 八路軍の徴用がもとで辞めた榎木さん

 月1回の休日の榎木さんは、いつもぼくたちとは別行動だった。
  日本人難民会へ行って、同胞の動向や社会情勢などさまざまな情報を仕入れるほか、恋人の消息をつかむ手がかりを求めていたのであろう。
 その榎木さんが5月に入って工場を2回休んだ。
 そのころ八路軍から、ハルピンの日本人難民会に日本人作業隊の徴用が下命されており、榎木さんはその代理徴用を引き受けたらしい。
 『満州 1945年 データマップ』(原書房)によると、1946年4月から5月にかけ南満地区では、東北地区へ全面進駐をせんとする国府軍と、これに抵抗する中共軍との間で激戦がくり返されていた。当時戦勢不利だった中共軍は、陣地構築、雑役、被服修繕、鉱山、医療・看護の要員として日本人を組織的に徴用した。 
(上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編 新人物往来社)

第1回徴用(1946・5・7)。1300人の作業隊員は新京経由で四平市に連行されたが、現地到着後何等の指示なく現地解散した。
 第2回徴用(1946・5・13)。人員は1500人。行先は長春。列車が第二松花江に達したところで下車を命じられ、附近の高地で5日間塹壕掘りをしたあと陶頼昭に戻ったがこれといった仕事もなく、病人が続出したため800人は哈爾浜へ返された。残員700人は更に4日間雑役に従事したが中共軍が鉄道・水道タンクを爆破して撤退したので、徒歩で双城を経て哈爾浜に帰還した。
 
工場を休んだ理由を榎木さんは、ぼくたちにも内緒にしていたが、若旦那をはじめ工場の中国人たちは八路軍(中共軍)の徴用で休んだことを察知していた。
 榎木さんが2回目の徴用から帰ってくると、彼らの態度はさらに冷ややかになった。
 それで居ずらくなったのか、榎木さんはとうとう工場を辞めてしまった。

 代理徴用を引き受けた二神先輩の手記

 榎木さんは、臨時徴用の話を一切口にしなかった。
  その辺の状況を、同じ星輝中学校の2年先輩である二神守さん(終戦時3年生)の『旧満ソ国境 我が避難の記』(私家版)から引用させてもらう。
  久しぶりにモストワヤ街の盛り場を歩いていると、身なりのいい日本人に声をかけられた。
 「私の住んでいる地域で、八路軍の留用者のくじに当り困っています。もし代わって頂けるなら、それ相応の御礼はします。お願いします」
(中略)留用の仕事は、戦闘地域に補給物資を届けることで、戦闘員ではないとくどくど説明した。私は、姉弟たちに相談することなく了承し、1千五百円だったか二千円だったか予想外の礼金を受け取った。
(中略)ハルビン駅の貨物専用構内から、八路軍の部隊と軍用貨物を載せたフラットの貨物列車に同乗して、新京に向かう。途中、政府軍の偵察機が飛来したが、そのまま引き返す。 低空飛行で手を振った飛行士は日本人飛行士だったと誰かがいう。双方に留用者はいるんだナとみんなが笑った。
 新京に到着すると、すぐに駅の近くの元敷島高女に入り、設営する。
  数日、待機していたがなにもすることがない。ある日、許可を貰って外出する。
かねて計画していた新京に在住している知人、友人を探すことである。
(中略)急いで設営地に戻ると、出動命令が出されており、慌しく出発し四平に向かう。
 夜、四平に到着すると、内戦の最前線らしく、遠く砲声、炸裂音がきこえた。
中支戦線に従軍の経歴があるという年配の留用者が、この砲声からすると、戦闘はまだ遠いところと教えてくれた。なんとなく安心し、気持ちに余裕ができる。留用者たちは無言で、貨車から物資、弾薬をおろす作業を続ける。
 三日目になると、砲声、銃撃音がだんだん近くなり、戦場を実感する。 
(「モストワヤ街」の2枚は『満洲慕情 全満洲写真集 補巻』(満史会編 謙光社)

 転進命令が出され、新京まで撤退することになった。
 新京に到着すると、われわれはご用済みとなり、八路から留用解除を告げられた。規律は厳正であったし、約束の賃金もきちんと支払われた。
 私は、更に北へ撤退する八路軍とともに、ハルビンに戻ることにした。(中略)ハルビンへの帰途、八路軍は松花江に架かる鉄橋を爆破した。

 孫文を崇拝する印刷工場の中国人たち

 若旦那をはじめ印刷工場の中国人たちは、八路軍のことを「パーロ」と嫌悪していた。あの暴虐きわまりない所業を残していった大鼻子(ターピーズ)のソ連赤軍と同じ共産党だから悪い奴らだとみなしていたようだ。それは彼らだけでないらしい。
 『満州脱出 満州中央銀行幹部の体験』(武田英克著 中公新書)によると、
全東北地区の民衆や旧満州国軍の兵士たちは、初めは対日戦の勝利者である国府軍に大きな期待をもって歓迎した。
  国府軍の人々にも善良な人はいたが(中略)大半の官僚や軍人は私服を肥やすことに専念し、(中略)期待は失望に変わり、青年層で八路軍に転向するものが増え、急激に八路軍勢力を拡大する結果を招いたのである。
印刷工場の中国人たちの崇拝する人物は「孫文」だった。
彼らは孫文を頂好人間だと崇(あが)め、工場の壁に額縁に入れた肖像画が飾られていた。
 孫文の流れをくむ蒋介石の国民党政府軍に肩を入れるのも無理はなかった。
ぼくは頼りにしていた榎木さんがいなくなると、この印刷屋で働く意欲が薄れていった。
 榎木さんがいたころは、彼のおごりで買ってきた塩味でゆでた殻つきの落花生や、ねじりん捧のような揚げ菓子を食べながら和気あいあいとやっていたが、それもできなくなった。
 榎木さんが辞める少し前に、日本人で片足義足の男が印刷工として入ってきたが、勘の鋭い榎木さんは、彼は偽名を使っており、怪しげな経歴の持ち主であることを見破っていた。
 満蒙開拓関係の元幹部ではないかと言っていた。
 印刷工との触れ込みだが、印刷機に紙を1枚ずつ送り込む単純な仕事でも、時々紙がクシャクシャに送り込まれることがあり、技術が未熟であることは誰の目にも明らかだった。
 それでも工場で雇ったのは、よほど印刷工が不足していたのだろう。
 そんな折、母が珠河(シュガ)街にある八路軍の被服廠に勝三も連れて働きに行くが、お前はどうすると工場に尋ねて来た。
 近くのアイスキャンデー屋から、甘い香が漂う季節になっていた。


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://saro109.jp/tb.php/86-8a170063
    この記事へのトラックバック


    最新記事