第5部 ハルピン浮浪(8)

2006年12月18日 13:45

 住み込みで印刷屋へ

 中国人の周旋業者が児玉君とぼくに紹介してくれた働き口は、中国人集落の中にある印刷屋だった。
 たぶん傅家甸(フージャーテン=道外)地区だろうと思う。
30代そこそこの周旋人に伴われて印刷所に着くと、即座に住み込みで雇ってくれることになった。
2人は一緒に働く約束だったが、ハルピン在住の児玉君は「住み込みは家で許してくれないから駄目だ」と断った。
同君は周旋人と一緒に帰って行ったが、その後、彼とは会っていない。つかの間の友だちで終わった。
中国人の周旋人は帰りぎわに、「この印刷所で立派な技術者になって下さい」と、ていねいな言葉を言い置いて去っていった。
印刷所では、すでに2人の日本人が働いていた。  榎木さんという20歳前半の元軍属と、満鉄の鉄道学校に入学したばかりという猪口である。
 榎木さんに周旋人が言い残していった言葉を話すと、
 「立派な技術者にねぇ?」。鼻先でせせら笑った。
 「こんな小さな満人の印刷屋ごときで、なにが立派な技術者だ」。言外にそんな言辞が含まれていたようだ。
 この印刷所の仕事は、新聞紙見開き大の用紙に罫線を印刷するだけで、活版印刷のような高度な技術を必要としない。
 印刷工は10人くらいいたが、印刷機に用紙を1枚ずつ送る単純作業で、2枚以上重ね刷りしないようにする腕が技術といえば技術だった。
 だから、榎木さんが「立派な技術者」に、あきれるのも当然だった。
 彼は部隊長に乗馬を教える乗馬教育係りの軍属だったそうで、騎手特有のO字型に湾曲したガニ股で歩いていた。
 猪口は敗戦の年の4月に、内地の国民学校の高等科1年修了で鉄道学校に入ったというから、ぼくより学年は1級上。内地からわざわざ満洲まで敗戦の辛苦をなめるために送られて来たようなものだった。
 猪口の「猪」は中国語で「豚」を意味するとあって、印刷屋の中国人たちからかわれることがあった。
 彼は真ん丸い顔でほっぺたが赤く、唇がすこしめくれ上がっていたので、豚に似ているといえなくもなかった。
 ぼくたちの仕事は、新聞紙の見開き大の紙をさばいて、重ね刷りにならないよう紙と紙との間に空気を通すこと。
 次に銀行員が札束を扇型に開いて枚数を勘定するように、大きな紙の束を爪で斜めにずらし、5枚ずつ数えて指定の枚数をそろえること。
 これらの作業はすべて榎木さんが手ほどきしてくれた。
 このほか猪口とぼくには、近くの共同ポンプ場まで水を汲みに行く仕事があった。
 手押しポンプの回りは、汲み出すときにこぼれ出た水がポンプの根元を頂点に斜面になって凍っているので、用心しないと足を滑らして転倒する危険があった。
 手押しポンプの周囲には、水を汲みに来た中国人女性がいつも集っていた。
 汲み出しの時間帯が決まっていたのかもしれない。
 最初の汲み出しは、ポンプの中が凍結しているはずだから、呼び水の代わりにやかんの熱湯を流す役目の当番がいたのだろか。
 ぼくたち2人は、水がたっぷり入った大きな鉄製の円筒の桶を天びん棒の中央に吊り、先棒と後棒になってかついだ。
 お互いチビ同士だったので、うまい具合に釣り合いがとれた。
(ハルビン駅は『別冊1億人の昭和史 日本植民地[4]続 満洲』毎日新聞社)

 
  纏足の太々と2号さん

  工場のジャングイには、小太りで纏足(てんそく)の太々(タイタイ=奥さん)と、若くて背のすらりと高い2号さんがいた。
この2人は、印刷工場の建物の向かい側にある隣り合わせの家に住んでいた。
 纏足は、女児が赤ん坊の時に足の指を足裏に折り込むようにきつく縛って発育を止め、極端な小足にした中国の風俗である。
 唐時代末期頃から流行したが、清の康熙帝が禁止令を出し、それ以後は衰退していったという。
 このころの満洲では、まだ、この太々のように纏足のたまに女性を見かけた。
 纏足は由緒ある家か金持ちの子女の中で容姿の美しい子女にのみおこなったと聞くが、印刷所の太々が美女だったとはとても想像できなかった。
 纏足は小足にして歩行を困難にし、女性の逃亡を防ぐため、というのが本当の理由ではないかと、ぼくは思う。
 先に引用した桂樟蹊子(かつら・しょうけいし)氏は『夕日の放射路 追憶の満洲』桂樟蹊子著 毎日新聞社)の中で、
纏足は14、5の発育盛りになると、殊のほか大変痛むらしい。(中略)汽車のベルが鳴っているし、纏足の母親は早く来いとわめいているけれど、纏足の痛みで歩けない娘が泣きながらホームの砂利の上をがさがさ這ってゆき、やっとのことで汽車に乗った。切ない思いでそれを見たことがあった。(中略)女性達は、家に引き篭もることが多く、町や村から外へ出ることなど、思いもよらないことであった。
 太々には子どもがなく、2号さんには3、4歳くらいのやんちゃな年子の女の子がいた。

(てん足の満洲婦人は『臨時増刊 太平洋戦争 日本陸軍戦記』文藝春秋)

  太々と2号さんは見かけたかぎりでは仲がよく、工場の入り口の前でいつも立ち話しながら、ぼくたちが水を運ぶようすを見ていた。
 なぜかしらないが2人は、ぼくのことを「頂好(テンハオ)小孩(シャオハイ)(よい少年)」だとほめ、うなずき合っていた。
 一方、相棒である猪口の評価はあまりかんばしくないようだった。
 2号さんの女児は、纏足の太々によく悪態をついてはからかい、怒るとキャッキャと逃げ回っていた。
 太々がアヒルのように尻を振りふり、よちよち歩きで追っかけても、子どもの方が機敏で逃げ足が速いから追いつけない。
 それが分かっているから、子どもたちはなおさらいい気になってからかっていた。
 小足なほど美人で、アヒルのようにでん部で調子をとりながら外股で歩く格好が、男たちには大変可憐で喜んでいたというが、彼らの美意識はどうなっていたのだろうか。
(右の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地[2]満洲』毎日新聞社)



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