第5部 ハルピン浮浪(7)

2006年12月11日 22:37

 ソ連兵の姿がない道外地区

 ハルピン市内の道裡(ドウリ)で日本人の児童たちを預かっている家に、ぼくはひとまず身を寄せることになった。
 この辺は中国人街の道外と違って、みなが寝静まったころにどこからともなく小銃やピストルの銃声が響いてきた。
 夜半に銃声を聞くのは敗戦直後の8月下旬ごろから一時期、馬家溝(マチャコウ)の元日本人の空き家に住んでいたとき以来、久しぶりのことだった。
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 自分の視野の範囲内での話しだが、道外ではついぞ街中でソ連兵の姿を見かけることはなかったように思う。
 深読みが過ぎるといわれるかもしれないが、道外という中国人街は、時の権力者や支配者層を受け入れない反骨的な土地柄が根付いているのではないだろうか。
 確たる根拠も持たない「群盲像をなず」の類に過ぎないことは承知のうえだが、敗戦後、新たに支配者となったソ連軍を拒絶する不穏な空気がこの街に醸成され、一転して支配階層の座から転落した日本人の受け入れに抵抗を感じなくなったのではと思う。
 元満蒙開拓義勇隊員だった古山秀男氏は、『一日本人の八路軍従軍物語』(古山秀男著 日中出版)の中で、
 わたしは、道外の饅頭(マントウ)屋へ行くよう幹部から指示され、さっそく出かけた。敗戦前、日本人は危険だから入ってはいけないと、といわれた中国人ばかりの住む道外へ、(略)たった1人で就職したときの心細さはたとえようもなかった。
 その後タバコ作りからアイスキャンデーへと仕事が変わったが、いつでも飯を食わせてもらうだけのただ働きに変わりはなかった。
 ぼくにとっては、もっと身近な日本人がいた。
 中学校の同級生だったF君で、彼もそのころ道外の服仕立屋で働いていたそうだ。
 敗戦後1年ほどは、相当数の日本人がこの街で働いていたのではないだろうか。
 (上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編 新人物往来社)

 
 耐寒性の強いソ連兵と日本将兵の凍傷

 道裡の家の児童たちは、2月の酷寒の中でタバコ売りをやっていた。
 ぼくも餅売りの時と同様、タバコの箱を整列させた板を首から吊るして街頭に立った。
 彼らは、最年長のぼくを中央にして両翼に等分に散って並んだ。
 厳寒の街頭である。
 防寒帽が避難の途中になくならず残っていてので助かった。
 陽気のいい日ではあったが、街路を歩いているソ連軍の若い将校らを見ていると、防寒帽の耳垂れをじゃまもののようにはね上げて平気でいるのには驚かされた。
 彼らの耐寒性は日本人と比較にならないのだろう、あれでよく凍傷にならないものだと感心してみていた。
 海林国民学校の6年生のときだった、校長の指示だったと思うが防寒帽なしで屋外での朝礼があった。
 校長が訓示を垂れているうちに、20数人いた児童のなかで低学年の数人の耳が白くなっていった。
 急きょ朝礼は中止となり、教室に戻って耳の外周の白くなった部分を先生たちが乾布摩擦の要領で手で懸命にこすって事なきを得た。
 凍傷も白いうちはまだよいが紫色になると手遅れだそうだ 凍傷については、桂樟蹊子(かつら・しょうけいし)氏が著書『夕日の放射路 追憶の満洲』桂樟蹊子著 毎日新聞社)の中で、その体験と思い出を次のように語っている。
 11月の初めの日である。(略)私の鼻がピッチと来た。ピッチと音がする感じがした瞬間、鼻の感覚が無くなった。家内に見てもらったら、鼻先が白くなっているという。
 これは凍傷だと、瞬間に思ったから、大急ぎで近くにあった満人経営のデパートへと飛び込んだ。直ちに鼻の摩擦にかかった。(略)摩擦は雪をこすりつけるようするという処置法を、私はかねがね聞いていた。
 幸い1時間ぐらい揉んでいたら、鼻に感覚が蘇ってきた。(略)その日の昼には、零下34度に下がったそうである。
(上の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続満州』毎日新聞社)
 その点、ぼくたちは冬になると、登校など外に出るときのマスクは必需品のようなものだった。
 桂氏は次のような痛々しい場面も目撃している。
 満洲の、極寒は生やさしいものではない。(略)手や足の凍傷をうけて切断し、胴体だけになって転がっていた将兵の何十人を、私はこの目で牡丹江駅の列車の窓から見てしまったことがあった。(略)内地から来た経験浅い将兵で、こうした手足のない「達磨さん」になった人々は、どれだけの数にのぼったであろうか。(略)牡丹江駅の片隅に置かれた畳敷きの汽車1輛の中の達磨さんは、あまりにも痛々しく満洲の極寒の恐怖を教えてくれた。

 少年兵に脅されたタバコ売り

 タバコ売りは全員が横一列に並び、餅売りの時と同じく黙って突っ立ているだけだった。
 手持ちぶさたで過ごしていると、通りがかった15、6歳のソ連軍の少年兵がぼくの前で立ち止まり、腰から抜いた短剣を突きつけ「ダワイ!」ときた。
 ぼくはその少年兵の脅し方に、腰の引けた感じが読み取れたので、本気で突き刺すことはないと無言で拒んだ。
 左右に並んでいた子どもたちは、くもの子を散らすようにいち早く逃げ去っていた。
 その数人が建物の陰から顔を出し、心配そうにこちらを見ている様子が、ちらっと横目に入った。
 だんだん時間がたつうちに、このままの状態を続けていると、お互い引くに引けなくなり、少年兵もぼくを突き刺さざるを得ない心理状態に陥るかも知れぬと不安になってきた。
 タバコの一箱ぐらい渡しておけばよかったと、後悔の思いが頭をかすめた。
 もう一度脅してきたら、今度は渡してしまおうと考えていると、相手の方がぼくより気が弱かったのだろか、短剣を引っ込めて立ち去ってくれた。
  彼は大人の兵士をまねてみたかっただけで、喫煙の習慣はなかったのではないかと思う。ともかく気迫を感じなかった。
 彼と対峙していた時間は、1分もあったかどうか。それでも頭の中では、あれこれ思いが回転していた。
 ほっと、息をついていると散らばっていた子どもたちがぼくの周りに集ってきた。
 帰ると子どもたちに一部始終を聞いていたおばさんたちが、タバコの一箱ぐらいソ連兵にくれてやればよかったのにと気づかってくれた。が、自分には物売りは不向きだとつくづく悟らされた。
『大連・空白の六百日――戦後、そこで何が起こったか』(富永孝子著、新評論)に、こんな記事がある。
 ショートル(泥棒)市場という古物露天市場があった。小学校4年生のI少年の商法は見事である。当時のたばこは1箱30円から40円。1箱売って儲けは1割。1箱売って3円か4円の利幅。そこで小売りから卸売りに転じる。10箱1包みのソ連軍用のたばこを直接彼らから仕入れる。
 ぼくより2級下でも、このような商才を発揮する日本人の子どもがいたのだから驚きだ。
 その後、ぼくは当てもなくハルピン駅頭でふらふらしていると、児玉というハルピン在住の6年生の男の子に出会った。
 年齢が近いこともあって、お互い旧知の友にでも会ったようにすぐ仲良くなった。
このころは、まだハルピンの街を歩いている日本人はめったになかった。
 だから見知らぬ同胞と街ですれ違うだけでも、懐かしい思いが体全体を駆け巡り、相手が大人なら「日本人の子ども?」と声をかけ、振り返りながら過ぎ去っていった。
 こちらも日本人に会えただけでホッとし、何となく安心感に包まれるのだった。
彼の名前をいまでも覚えているのは、日露戦争の名参謀、児玉元帥と同姓だったからだ。
 彼は駅の近くに日本人に仕事を周旋してくれる所があると教えてくれた。
 その中国人の周旋業者に連れて行ってもらうと、今日はもう遅いからと断られた。
 2人は翌日、駅前で待ち合わせることを約束して別れた。
(上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編 新人物往来社)
 


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