第5部 ハルピン浮浪(6)

2006年12月06日 15:20

 わが子をわが手で…開拓団の女性

 
 母もすでに鉄工所をやめ同じ道外地区の時計屋に住み込みで働くようになっていた。
 弟の勝三はハルピン市日本難民会(?)の救援で設置された託児所に預けらていた。
 前の鉄工所では通勤で通っていた元満鉄の現場主任が若手の満鉄工員を引き連れて、よその鉄工所に変わり、残ったのは一番若い1人だけとなった。
 そのため日本人の賄い婦は必要なくなったわけだ。
 時計店には長野県の開拓団にいたという女性、Mさんも母と一緒に住み込んでいた。
  母の話によれば、Mさんは幼い女の子を背負い団員たちと集団で逃避行中、ソ連軍に追い詰められ高粱畑に身を潜めていたが、「幼児が泣くと敵に見つかる」と強い叱責を受け、やむなく自ら腰ひもでわが子の首を絞めねばならない悲惨な体験をしたばかりの人だった。
 ぼくにはそんな体験を強いられた女性とは思えないほど明るく振舞っていた。
 そんなMさんだが、夜ともなれば出征していった夫を偲ばせるのか
 ♪月が鏡であったなら 恋しあなたの面影を 夜ごと映してみようもの
 哀調を帯びたメロディーを、しんみり口ずさんでいた。
 「夫に会って子どもの件を報告するまでは死ねわけにはいかない」
 母に洩らしていたMさんの心境は、今はただその思いだけで生きているということなのだろう。
(開拓団の女性たちは『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編 新人物往来社。高粱畑は『満州の記録 満映フィルムに映された満州』集英社)


 物乞いから釣り銭をもぎ取る番頭

 時計屋のジャングイの紹介で、隣のカステラ屋で使ってもらうことになった。
朝早く出かけると番頭らしき男に早速、カステラの製造現場につれていかれた。
 忙しく立ち働いている職人たちは、カステラ作りの知識もなければ言葉も通じない日本人の子どもを、いきなり連れ込まれても足手まといだけなのだろう見向きもしなかった。
 ぼくはは職人たちの作業のじゃまにならないよう、体をよけながら立って眺めているほかなかった。
  番頭も現場は無理だと気がついたらしく、店の方へ連れて行かれた。
 ところが陳列ケースに並べられた商品には値札らしきものが付いていない。
 また、この店はカステラを会に来るお客よりも、物乞いの出入りの方が多いくらいだった。
 物乞いが店先で低頭を繰り返しながら何やらつぶやいていると、番頭が出てきて五角(50銭、ウーモチェン)紙幣を与え、「早く行け!」といわんばかりの手つきで追い払っていた。
 物乞いの相場は五角と決まっているのか、店に壹圓(イーカイチェン)しかないときは、物乞いに対して釣り銭を請求した。
 出し渋ったりしていると、首から提げている空き缶のなかに手をねじ入れ、有無を言わさず五角紙幣を抜き取ってから渡した。
 五角がないときは、そのまま追い返せばよいと思うのだが、この店のしきたりなのか、それとも同業者間の慣習なのかしらないが、まいど律儀に五角を払っていた。
 ぼくには、商品の値段もわからないままお客と応対したり、物乞い相手に釣り銭を取り立てるような芸当はできそうにない。
 製造現場で間に合わず、店番も無理となれば、もうこの店では必要なかった。
 ぼくは3日間ほど、カステラの粉すら舐めさせてもらうこともなく、カステラの焼き上がる甘ったるい匂いをかがされただけでお払い箱となった。

(「ハルビン」伝家甸は きょうも人通りが多い 満人の商店区である正陽大路は“ハルビン名所”。右上の満州国紙幣も『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[2]満州』毎日新聞社)
 

 ショウハイの好意を無にした餅売り

 時計屋のジャングイは、ぼくに餅売りをすすめ、元手を貸してくれた。
 朝早く母に連れられ日本人の卸市場に仕入れに行った。
 1個8円で仕入れ、売値は10円だったという記憶はないが、何かで読んだ。
 駅弁売りのように餅を並べた箱を首から掛け、時計屋の前の街頭で2月の厳冬にさらされながら1日中立っていた。
 日本人の食べるアンコロ餅を中国人街で売り声も上げず、ただ漫然と立っているだけだけだから1個も売れなかったのは当然であった。
 結局、売れ残った餅は全部、ジャングイが買い取ってくれた。
 買い取った餅を中国人のジャングイがどう処理したかは知らない。
 翌日もまた結果は同じだった。
 前日同様、漁場にあわない餌で釣りをしているようなものである。
 かといって同胞が往来する場所を求め、魚場を変えるといった勇気も才覚も働かない。
 まだ治安不安定で地理も不案内なハルピンの街中を、あちこち遠征するにはかなりの度胸も必要だった。
 それでも2日目は、一度だけ売れるチャンスがあった。
 前日からぼくの回りを、うさん臭げにうろついていた中国人の小孩(ショウハイ)2人が側に来て
「イーガ トウルチェン(1個いくらだ)」
 しつこく訊くのだ。
(街頭で『写真集「満州」遠い日の想い出』一色達夫、宇野木敏・編。KKベストセラー刊)

 てっきりからかわれていると、思っていたぼくは彼らを無視していた。
 すると小孩の1人が、横を通っていた大人に向かって
 「おれたちが買ってやろうと思って、値段を聞いても、こいつは知らん顔をしている!」
 と、まくし立てるのだ。
 小孩2人は、厳寒の街頭に立ち尽くしている同じ年ごろの日本人の子どもを哀れに思い、買ってくれようとしていたのだった。
 母が死んだ晋や修を負ぶっていた黒い帯で縫い合わせた間に合わせのオーバーで街路に立っているぼくに、昨日から同情していたらしい。
 彼らに1個や2個餅を買ってもらったからといって、どうなるものでもないが、2人の小孩の好意を無にしたことを後悔したが後の祭だった。
 自分には商才というものが、まったくないことを思い知った。それはぼくだけではなく、日本人一般に言えることのようだ。
 『満洲の日本人』(塚瀬 進著、吉川弘文館)に、こんなことが書かれている。
日本人商人のなかでも最も多かった小売商は、在満日本人相手の「共食い商売」をしており、中国人を顧客にしていなかった。
 中国人と日本人の習慣、嗜好は違うので、日本人商店に中国人の欲しがる商品は並んでいないこと、中国人は「チャンコロ」あつかいされ、お客に思われない。
 中国人で日本人相手に商売している人はいるが、日本人で中国人相手の商品をならべている人はいない。
 だが、その一方、敗戦前、日本人は危険だから入ってはいけないといわれていた傅家甸(道外)に日本人企業や商店があったことが、『哈爾賓物語』(杉山公子著 原書房)に書かれている。
 下のリスト「傅家甸(道外)の日本人企業・商店」がそうだ。
 著者の杉山公子氏は戦前、同地区の許公路108号にわが家があったが、戦後再訪したときは中国人旅館になっていた。



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