第5部 ハルピン浮浪(5)

2006年12月02日 20:59

 パンク貼りを客に教わる
 
   中国人の独身の兄弟2人が経営する自転車屋に住み込みで働くようになったのは、旧正月が明けて間もないころだから2月に入っていただろうか。
たぶん鉄工所のジャングイの紹介ではなかったかと思う。
 健康が回復した日本人の子どもを、いつまでもただ飯で養う義理はないはずだ。
 かといって鉄工所で使うには、体力もない病み上がりの子どもは無理だ。
 それで知り合いの自転屋に頼み込んだのではなかろうか。
 自転車屋といっても単なる修理屋で、完成した自転車は1台も置かれていなかった。
 当時は高価な自転車を乗り回すような中国人はあまりいなかったはずで、店に入ってくるお客もほとんど目にしなかった。
 ぼくの仕事は朝早く起きて店の掃除をすることで、そのあとはこれといった仕事はなかった。
 よくやらされたのは自転車の車輪のブレを調整する作業だった。
 車輪中央のハブから外円に放射状に伸びたスポークを、リムのところについている小さなねじで調節する作業だが、そのやりかたを兄弟のどちらも丁寧には教えてくれなかった。 
(上の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地[2]満洲』毎日新聞社)

 2人は鉄工所のジャングイに頼まれたから、仕方なくぼくを置いているだけで、仕事を覚えさせようなどという気はなかったようだ。
 そんな状態だから、こちらのリムをいじれば、あちらがブレるといった具合で、調整はなかなか思うようにいかない。
日がな一日、作業台の前に突っ立ってハムスターのように、自転車の車輪をくるくる回していた。
 一度だけ、自転車のパンクしたタイヤの修理をまかされたことがある。
 兄弟の一人がパンク貼りの要領を、早口で説明するのももどかしげに、すぐその場を離れていった
 お客はぼくの側にしゃがみ込み、空気入れでチューブをふくらませ、洗面器に入れてパンクの個所を探し当て、パンクした部分の周りとそこを補修する薄いゴム片の両方をサンドペーパーで汚れを落とす、そこまでの手順を黙って見つめていた。
 両方にゴムのりを塗りつけてパンクの箇所に貼りつけたときだった、お客がいきなり怒り出したのだ。
 「お前はいいから退け!」
 理由の分からないまま、作業中のチューブを取り上げられた。
 彼はゴムのりを塗ったチューブとゴム片の両方に自分の息を吹きかけて半乾きにし、それから貼り付けた。
 ゴムのりを塗ってすぐ貼りつけては、うまく接着しないことをお客から教えられる始末だった。

  日本語に飢える

 自転車屋では屋根裏が、ぼくのねぐらだった。
 ここでは、とにかく日本語に飢えていた。
 夜になると、屋根裏の部屋に敷いたせんべい布団の中から首を突き出し、薄暗い豆電球の下で文庫本をむさぼるように読んだ。
 題名は「新撰組」という活字が含まれていたと記憶するが、ぼくの新撰組についての知識は少年雑誌などで得た勤皇の志士を取り締まる悪役のイメージとか、近藤勇と鞍馬天狗の対決など単純明快なストリーからだったので、大人向けの文庫本に書かれた新撰組は読んでいて新鮮に感じた。
 あくる朝起きるのが辛くなると分かっていても、このページを読み終えたらやめにしよう、そして読み終わると、また次のページとめくっていた。
 文庫本はカマドの焚きつけ用に束になって置かれていた本の中から持ち出したものだった。
 焚きつけの束はすべて日本語の本で、中には文部省発行の小学校の教科書なども十把ひとからげで積まれていた。



 国語や修身の教科書は中表紙を開くと、左肩上に印刷された“文部省図書発行許可證”のデザインが懐かしかった。
 授業が始まり教科書のページを開くと、まずこの切手のような許可證が目に入り、そのデザインから鬼の顔をいつも連想していた。
 交差した2本の国旗の日の丸が鬼の目玉のようであり、国旗の竿が角のように、ぼくには見えてしまうのである。
 学校で大切に扱うよう注意されていた教科書が、こんな場末の粗雑な中国人の民家に流れ着いて焚きつけにされている、その零落ぶりを目の当たりするとがく然たる思いがした。
 半月も過ぎたころだった。母がぼくを引き取りに来た。
 自転車屋では、「こいつは病気だからいらない」ということだった。
 おそらく病み上がりのぼくの動作はかなり鈍かったに違いない。
 役立たずの日本人の小孩など、お客もほとんど来ない零細な修理屋でいつまでも預っているわけにはいかなかったのだろう。
  ただこちらも言わしてもらえば、ここの食事は質量ともひどかった。
 朝夕2回いずれも煎餅(チェンピン)1枚と塩味だけのスープをあてがわれるだけだった。
煎餅は高粱や大豆の粉を薄く溶いてクレープ状に延ばして焼いたものだ。
 薄くてちょっとパリッとした食感だったと思うが、材料が材料だから味はクレープと似て非なるものである。
 中学校で寮生活のころは満人部落まで買い出しに行く者がいて、これで空腹を満たしていたから食べ馴れてはいた。
 だが、ここでは朝夕とも煎餅1枚のみけだ。
 いかに健康なものでも栄養失調になり、動作も緩慢になるのではなかろうか。
 そうならなければ不思議なくらいだ。
 いつもここの兄弟は、ぼくに食事を先にすまさせ、ぼくが出て行ったあとに自分たちだけで食卓についていたから、2人がどのようなものをどれだけ食べていたかは知らない。
(上の写真は、平康裡(里) 傅家甸十六通街。にぎやかな歓楽境であり、中国人の娼家はここに集中的にあった。傅家甸西部の桃花春や松花江畔にも低度の中国人遊女(満娼)がいた。『写真集 ああ北満 北小路 健編』 図書刊行会)


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