第4部 新香坊難民収容所(8)

2006年10月26日 13:47

 年子2人が衰弱死

 11月に入ってから年子の弟2人が続けて死んだ。
 栄養失調による衰弱死だと思う。
 このころになると、医者の診断を受けることもなくなっていた。
 去年までなら、いまごろはスケート・シーズンだ。
 左右の靴ひもを結んで肩に掛け、スケートのエッジを胸のあたりでカチカチ鳴らせながら登校していた。
 円明校に通っていたころは、校庭につくられたスケートリンクで滑っていた。体操や昼休みの時間はもちろん放課後も開放された。
 放課後のリンクは、定刻過ぎてもスケートに打ち興じ、リンクから出ようとしない下級生と、早くリンク清掃を終えて帰宅したい高等科の生徒とのせめぎあいが、しばらくつづくのがいつものことだった。
 当番の高等科生は、この不届きな下級生たちを清掃用の竹ぼうきを振りかざして追い出そうとする。
 追いかけられる側の不届きな下級生たちは、これが面白くキャッキャと逃げ回っていた。
 ほんの1年前までのそうした世界は、いまは遠い異次元の世界である。
 だが、いまはそんな昔を思い出し、懐かしむほどの精神的なゆとりは失せていた。
 氷点下20℃から30℃の酷寒と空腹に耐えることで、頭の中は精一杯だった。
 このころのぼくは、いつも共同炊飯場まで行き、釜戸の炊き口に枯れ草をくべながら暖をとっていた。
 もうひとり常連に下級生の男の子がいたが、この周辺のほかの子どもたちはどうやって寒さをしのいでいたのだろうか。
 この近辺では、ここ以外に火の気のある場所は見当たらないはずだだが。
 一度、2人の思いつきで、煙でも吸えば、空腹感がすこしでも和らぐのではないかと、キビガラに似た草に火をつけタバコのように吸ってみたが、いがらっぽいどころか、ひりつくような痛さがノドを刺激し、むせ返るだけだった。
 1回だけだが、炊事係のでっぷりしたおばさんから、釜の底にできた高粱がゆのおこげをもらったことがある。
 「お母さんに、わたしから貰った、とよく言うのよ」何回も念を押された。
 砂の混じったおこげだったが、空腹の身にそんなことは委細かまわなかった。
 「2匹目のどじょう」に期待をかけていたわけではないが、この日も、いつものように釜戸の前に腰を据えていると、
 「いま、お母さんが探していたよ。すぐ帰るようにって」
 ぼくのいつもの居場所を知っていたらしく、元リヤカー隊の子どもが伝言に来た。
 部屋に戻ると1歳の修(おさむ)が、母のひざの上ですでに息を引き取っていた。
 1週間前に死んだひとつ年上の晋(すすむ)が衰弱死に至るまでの様子をずっと見てきていたので、「修は今日死ぬだろう」と、この朝、母とぼくは話し合っていたばかりである。
 それなのに寒さに耐え切れず、炊飯場にちょっとのつもりで出かけたのだが、ずるずると居つづけたため死に際に間に合わなくなった自分が情けなかった。
 医者も薬も頼れないいま、最期にしてやれることはそれだけだった。
 晋が死んだときも炊飯場にいて最期を看取ってやれなかった後悔から、修の時は必ずそばにいてやろうと決意を新たにしていたのだが、意思の弱いぼくはまた同じ悔いを残す結果を招いていた。
(写真右上は『別冊 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社。左下は『写真集[満洲]遠い日の想い出』一色達夫、宇野木敏・編 KKベストセラーズ刊)

 お供え物と訓練生
 
 簡素なにわか葬儀場で読経を受けると、鉄条網の外の畑に用意された墓穴に埋葬した。
 このころはもう卒塔婆は貰えなかったと思う。
 墓穴はツンドラ(凍土)にならないうちに、訓練生や大人たちの使役で広々とした畑一面に掘られていた。
 このひと冬の間に予想される数(記録では約3500人)だけ掘られたのだろう、墓穴は遥か彼方まで整然と隊列を組んでいた。
 修を埋めてできあがった土饅頭の前に、満人の売り子からなけなしの金をはたいて買ってきた菓子を供えた。
 先に埋めた晋の土饅頭は、どのあたりかまったく見当がつかなくなっていた。
 目印になるべき卒塔婆もないだけでなく、この1週間のあいだに新たに何十もの土饅頭が増えているためだ。
 とはいえ野ざらしではなく、土中に埋葬されそれなりの供養を受けることができたのだから、このころとしては贅沢の部類に属すると言えるだろうか。
土饅頭に頭を下げていると、墓地と化した畑の横を走る道路の並木の陰から眼鏡を掛けた小柄な訓練生がこちらをうかがっている姿が横目に入った。
 
(毎日新聞1980.5.10・夕刊)

 墓前のお供え物を狙っているのは、すぐ読み取れた。
 お供えをそのまま置いていくのを期待しているようだ。
 拝み終わると母は早々に、ぼくと国民学校1年の弟、勝三(かつみ)にお供え物の菓子をすぐ食べるよう分け与えた。  「政治(まさはる)は、いまごろどうしているだろうね」
 眼鏡を掛けた背の低い訓練生に母も気づいていた。
 年格好も似ていてチビ、それに黒ぶちの丸い眼鏡の少年を見て、兄のことを思い起こしたのだろう。
 同じ中学校の1期生である兄たち4年生は、勤労動員でこの年の6月から新京(現長春)の北西にある白城子の満洲航空四平台飛行機工場に出動していた。
 それはともかく、母もぼくもお供え物を訓練生のために残して行くような同情心はこれぽっちも持ちあわせなかった。
 こちらだって飢えに苦しんでいるのだ。
 11月末になると今度は、ぼくが高熱で寝込んでしまった。発疹チフスだったと思う。

 牡丹江の隣の樺林(カバリン)から非難してきた清安悦郎さん(当時、牡丹江中学1年生)は、「最初、ハルピン市内の中国人学校に収容され、9月になってすぐに、ハルピン郊外の新香坊の難民収容所に移送された。
(中略)難民のなかには中国人から食糧を買い求める金銭もなく、ひどい高粱飯で 日に日に衰弱していく子ども、老人が多かった。
 そこでの滞在が2週間、3週間と重なるうち、体力がつきて息を引き取っていく人間が次々と出はじめていた。
 11月の北満はすでに凍土の季節。難民の死者は寒さと飢えで数を増し、収容所の庭には死体が山をなすほどだった。(『シャオハイの満洲』江成常夫著 新潮文庫)
 一方、前記した『満州開拓団死の逃避行 証言』(合田一道著)では、新香坊収容所内で11月に入ってから児童のために運動会が開かれたとある。
 父兄も参加することになり、活気がみなぎった。
 当日は寒さは厳しいが晴天に恵まれ、リレー、遊戯とプログラムが進んで、(招待していた)ソ連将校も拍手を送っていた。(『満州開拓団死の逃避行 証言』合田一道著 富士書苑)
 同じ場所、同じ時間を共有していても収容所内での証言は三者三様である。それぞれ自分の目に触れ体験した範囲が限界で、収容所全体を俯瞰(ふかん)できる立場にあった人でない限り、さまざまな難民の生き様をとらえることは不可能なのだ。


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