第4部 新香坊難民収容所(6)

2006年10月16日 14:38

 機知と機転と命運と

 10月も半ばすぎごろだったと思う、新京行きの列車が出るという話が伝わり収容所内でも希望者が募られた。
 海林からこの収容所まで一緒だった宿舎の人たちの中からも参加者がでた。
 これまでとは違い新京行きの列車は、むろん有料である。
 その乗車賃はかなりの金額にのぼるが、それだけの手持ち金のある人が相当数いたようだ。
 ぼくの失態がもとで馬家溝(マチャコウ)では、ソ連兵に胴巻きを「ダワイ」され無一文になったとばかり思っていたが、皆がみな全額を強奪されたわけではなかった。
 馬家溝の家の廊下に全員が正直に並んだわけではなく、その場を要領よく逃れていた婦人もいた。
 思ったより皆さん、したたかだった。  
 人間は窮地に陥ったとき、とっさに機知や機転が利き、その場を度胸で潜り抜けることができるかどうかで、それぞれの命運が分岐される。
 話はそれるが、元満洲中央銀行の武田英克氏が興味深い体験を記している。
 武田氏が昭和23年8月上旬に長春(旧新京)を脱出し、10月半ばに瀋陽(旧奉天)にたどり着くまで約200?以上(鉄嶺―瀋陽間約50?を除く)を歩き通した逃避行(最後は、わずか20?の骨と皮だけの乞食行)でのことである。
(上の写真は『写真集「満洲」遠い日の想い出』一色達夫、宇野木敏・編 KKベストセラー刊)

 八路軍の厳重な検問に合った時、少年時代から得意だった手品の手を使って、その目を逃れダイヤの指輪や紙幣を没収されずにすんだ。
 猛烈な下痢に悩まされて、そのまま溝の中に倒れこんだ。(中略)その瞬間、脳裏にひらめいたのは、まだ幼かったころ、下痢をすると母がいつも「カーボニイ」という炭の粉のような薬を飲ませてくれたのを思い出した。(中略)私はその薪の炭を手でこすって、炭の粉を作り、溝の水を汲み取って一緒に飲んだ。
 果たせるかな、こんど飲んだ水は下痢することなく、ぴたりぴたりと体内にとどまるように思えた。
 (中国の農家の)囲炉裏から薪、薪から炭、炭からカーボニイといった連想を、死にかけた私に起こさせたのも見えざる母の力であったと思う。(『満州脱出 満州中央銀行幹部の体験』武田英克著 中公新書)

 松本さんへの嫌疑

 新京行きが話題になったころ、軍事郵便所(軍郵)で同僚だった人の奥さんが憤慨した顔で、ぼくたちの個室に入ってきた。
幼児を抱いた奥さんは立ったまま、母となにやら言い合っていたが最後に、
  「奥さんて、そんな人だとは思わなかったわ!」
 腹立たしさを言い残して出て行った。
 二人のいさかいの原因はなんだか知らないが、母はその間も平然とした顔で通していた。
 同じ軍郵の臨月だった婦人も(出産はまだだったか?)、その奥さんと行動をともにした。
軍郵3家族のうち、母とぼくたちだけが香坊の収容所に残った。
 長谷川姉弟も新京行きに加わったのか、そのご姿を見かけなくなった。
入 所したころは人間と荷物とで手足を満足に伸ばすこともままならなかったアンペラ宿舎の部屋も、新京へ一部の人たちが流れ去ったことでゆとりができた。
 しばらくして新京行きの余波が静まったころ、“松本さんの奥さん”と呼ばれる婦人が、「部隊長の奥さんの財布から金を盗んだ」という噂が広まった。
 彼女が幼児に菓子を与えているのを見た人がいて、そこから疑いを持たれたのが発端らしい。
 松本さんも馬家溝の家でソ連兵に財布を奪われた一人だが、真っ正直な彼女はそれが全額だった。
 そのことを知っている婦人に、彼女は買い食いする金など持ち合わせていないと、嫌疑をかけられたのが真相のようだ。
(写真は『満蒙開拓青少年義勇軍』上 笙一郎著 中公新書)




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