第4部 新香坊難民収容所(5)

2006年10月13日 22:03

 副班長の怒りを買う

 副班長の長谷川に呼び出しをくった。
 呼びに来たのはリヤカー隊の国民学校の子どもで、その後について訓練所内の小さな納屋に入ると、薄暗い空気の中に班長と2人で待ち受けていた。
 怒りをあらわにした長谷川の前に立つと
 「この! おしゃべり!」
 ビンタが一発飛んできた。
 「あれほど誰にもしゃべるなと言ったのに! お前は、お袋に似ておしゃべりだな!」
 「本当に、こいつがしゃべったのか?」と班長。
 「うちの姉(あね)きに、“あんたとこの弟さん、うまいことやったわね”だって、こいつのお袋のやつ!」
 彼が激怒している原因のすべてが、これで飲み込めた。
 2人の訓練生が先日、宿舎の裏庭で探しあぐねていた時計にかかわる件だ。
 「あいつら馬鹿だなぁ。自分で埋めといて…俺にはすぐどこか見当がついたよ」
 訓練生があきらめて立ち去った後、彼は一人で頃合いを見計らい掘り当てたのだ。
 その時計を班長と連れ立って、満人に売りに行って金にした。
 その分け前は班長だけにしておけばよいものを、それを知らないリヤカー隊の下級生にまで分配したのである。
  ぼくは貰った分け前を馬鹿正直に母に話していた。
 「あんたは正直でいい子だ。こういうことは親に内緒にするもんじゃないよ」
 そう言いつつ母は、彼の姉にこの件をしゃべっていたのだ。
 それもお礼の言葉ならまだしも、どうゆう意図があってか、かなり皮肉が込められていたらしい。
 相手の気持ちなど意に介さない無思慮で軽薄な母に腹立たしさが募った。
 そんな母にうかつにしゃべった自分の浅はかさにも。
 彼には両親がいず、海林では酒保(軍の購買部)で働いていた姉に養育されていたようだ。
その親代わりの姉の面目を丸つぶれにされたのだ。
 怒り心頭に発するのは当然のことだし、憤懣(ふんまん)やる方がなかったであろう。
 それ以来、リヤカー隊の国民学校にまで「おしゃべり!」呼ばわりされるようになったぼくだが、その悔しさは比べものにならなかったはずだ。
 それどころか、もし、この件が義勇隊員に伝わりでもしたら、ただではすまないはずである。   
(写真は『太平洋戦争 日本陸軍戦記』文藝春秋)



 リヤカー隊の遊び

 使役の帰り道のことである。
 リヤカー隊の正面に、開拓団の難民とわかる若い女性が3人近づいて来るのが目に入った。
 副班長の長谷川はリヤカー隊に歩調を緩めるように命じ、大声で
 「おおい! お前たち、なんで“ぼうず頭”にしてるんだ!」
 声をかけられた女たちは、急に顔を赤らめ、うつむき加減にリヤカーの横を足早に通り過ぎて行く。
 長谷川はその背に向け
 「事情があって坊主だら!」
 その開拓団の方言を浴びせかけた。
 すでに、ぼうず頭の理由を聞いて知っているのだが、その時、返ってきたこの方 言が彼には面白く、からかってみたくなったのだろう。
 彼には、このように品性に欠ける趣味もあったが、いろいろな遊びを思いつき率先するのも彼だった。
 空になった帰りのリヤカーに下級生の子どもを1人ずつ交替で乗せ、おみこし気分でリヤカーを景気よく引かせた。
 体重の軽いぼくも、国民学校の子どもたちと同じように扱われた。小さな小屋の天井裏に雑のうが隠されているのを発見したのも彼である。
 雑のうの中には三八式歩兵銃の弾丸がぎっしり詰まっていた。
 それを表に持ち出すと銃弾の弾を抜き取り、薬きょうの火薬を地面に線状に引いてマッチで点火し、火薬がシュルシュルと燃えて走るのを楽しんだ。
 銃床の壊れた三八式歩兵銃も、彼がどこかで見つけてきた。
 銃声がソ連兵の耳にとどくと困るので銃身を土中に突っ込み、おっかなびっくりで発砲したりもした。
 ごぼう剣(銃剣)が山積みになっている小屋を見つけてきたのも彼だった。
 だが、このごぼう剣の遊び道は、誰にも思い浮かばず無用の長物だった。
 リヤカー隊員が副班長の長谷川の後について遊んでいたのも使役が終わるころまでだった。
 10月も下旬をすぎると寒さが厳しくなり、広場で遊ぶ子どもの姿も見かけなくなった。
(写真は『別冊 日本植民地史[2]満洲』毎日新聞社)
    


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