第4部 新香坊難民収容所(2)

2006年09月26日 20:44

 斎場の行列と大豆の搬送

 収容所に一緒に漂着した難民たちも、最期の旅路はそれぞれの寿命に従った。
 当然のように体力の弱い乳幼児や老人たちから先に旅立っていった。
 にわか仕立ての斎場となった建物の前は、まいにち遺体を抱いた人の行列ができるようになった。
 数えたわけではないが、行列の長さは目測で20人前後だったろうか。
 難民の一人である僧侶が読経し、終わると順番にそまつな板切れの卒塔婆(そとば)が渡された。
 墓地は収容所の外の広大な畑の中で、訓練生や難民の男たちの手で掘られた穴に埋葬されていった。墓地化した広大な畑には、死者を埋めた土饅頭が整然と並んでいた。

(毎日新聞1980.5.10・夕刊)

 使役のぼくたちは、斎場の行列を尻目に大豆の詰まった麻袋を満載したリヤカーを引き、駆け抜けて行った。
 自分たちと死の行列とは無縁、無関係のように……。
 大豆搬送の使役は、大広場の周辺に住む国民学校5年生以上の少年5、6名で構成された。
 義勇隊員が脱穀した大豆は、これもまた義勇隊員の手で麻袋に詰められ、大広場に山積みされていた。
 ぼくたちはそれをリヤカーに満載し、貨物列車が待機している引っ込み線まで運ぶのである。
 引っ込み線は大きな倉庫の中まで引かれており、そこにソ連製の貨物列車が待ちうけていた。
 倉庫にはどこから集められたのか、さまざまな機器類や物資が集積され、それを貨車に積み込む作業も収容所の日本人の男たちだった。
 敗戦前だったら満人の苦力たちにやらせていたような重労働である。
 ソ連製の機関車は日本製に比べて全体に仕上げが粗雑で、連結器なども荒削りのままだった。
 仕上がりの繊細さなどどうでもよく、機能さえ果たせればそれで充分という思想のようだ。
  斎場の行列は、ぼくたちとは無縁のものと思っていたが、そうでもなかった。
ぼくたちの班長も幼い弟を抱いて、この行列に並ぶ日が間近にあった。
 そのまえの日、使役が終わったあと、副班長の長谷川に誘われ、弟の容態が悪いと聞いていた班長の様子をうかがいに行った。
 牡丹江中学3年の班長が住んでいたのは大広場に面した講堂のような広い建物だった。
 広々とした部屋に敷かれたアンペラの上であぐらをかき、湿った顔で幼い弟をひざに抱いていた。
 「こんや一晩の命だから、こんやはしっかり抱いて寝てあげてね」
 看護婦が、やさしい言葉を言い置いて先を急ぐ医者の後を追った。
 その看護婦は、海林から一緒だった女子軍属の1人だった。
 まだ、このころは医者と看護婦が診察に訪れてくれたのだ。
 班長の目が涙でうるんだ。
 班長の弟は、ぼくの年子の弟より年上のはずだったが、このころはまだ死が身内に押し寄せるなど思いもしなかった。
むしろ、「あと一晩」という医者の予測に不思議さを感じていた。
 長谷川は表に出ると、「あいつ涙ぐんでやがるの」と、班長のめめしさをあざ笑うような言語を吐いた。
 「まだ死んでもいないのに、めそめそするな!」ということだろうか。
 高等科2年の彼は海林からぼくと一緒で、家族は姉2人の3人姉弟だった。
 この収容所にたどり着くまで、どこにいたのか気付かないほど、ぼくにとっては存在感の薄かった彼が、いつの間にか使役隊の主導権を握るようになっていった。
 使役で搬送する麻袋の大豆の行き着く先はソ連国内なのだが、彼はそんなことには無頓着で「それ!」と、一人張り切ってリヤカー隊に威勢をつけていた。
 それにしても、日本の義勇隊員が耕作し収穫した農産物を、日本の少年と大人たちを使役に使い、そのすべてをソ連領内まで輸送するとは全く理不尽な話である。
(上の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地[2]満洲』毎日新聞社)
 


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