第3部 エミグラントとなって(7)

2006年09月18日 13:16

 花園の赤飯

 校庭に出ると落葉しきりだった。降りしきる枯葉に一足飛びに秋の気配を感じた。
 2年前の修学旅行では、この花園国民学校も見学コースの一つに入っていた。
その学校が今は日本人の難民収容所になり、3千人もの難民が収容されることになろうとは……。
割り当てられた室は2階の教室だった。ぼくたちが入所第一陣だったのか、室の中はまだ広々としていた。  それが9月末には、
 1人1畳の空間もなく、荒ムシロが敷いてあるだけ。人いきれと異臭ですえ果てていくような空気がよどんでいました。異臭には屍臭(ししゅう)と排泄物(はいせつぶつ)の臭いが入り混じっていたのだと思います。(岩波ジュニア新書『孫に伝える「満州」』坂本龍彦著)
 入所したその日の夕食は赤飯だった。ベークライト(?)の食器に盛られた赤飯を大喜びで口に入れると、これが赤飯とは似ても似つかぬ代物だった。高粱(こうりゃん)のあずき色に惑わされたのだ。
 生まれて初めて口にする高粱飯は、ぱさぱさで味も素っ気もなく、腹は減っていても喉を通らなかった。
 だが、そんな“ぜいたく”を言っておれたのもつかの間だった。その後は高粱も“飯”ではなく、“おかゆ”が常態となり、それも朝夕1日2食となるのである。
 それから1週間も経たないうちに、花園校から移動することになった。
 ハルピンの郊外にある新香坊の満蒙青少年義勇軍訓練所跡で、そこが新たに「新香坊日本人難民収容所」となったのである。
(上の写真は花園国民学校『写真集 ああ北満 北小路 健編』図書刊行会)

 
 部屋割りに母の宣言

 移動はトラックで、幼児を含む40人近い人間が荷台に積み込まれた。
 秋晴れの陽気のいい日だった。
 元訓練所の営門を入ると、土煉瓦で造られた隊舎がいく棟も立ち並んでいた。そのうちの1棟がぼくたちの宿舎に割り当てられた。
 真っ先に宿舎に飛び込んだ母は、入り口の左側に独立した個室があるのを目ざとく見つけ、
 「わたしは子どもが大勢いるからこの部屋にします!」
 後ろの人たちを見向きもせず、強引に宣言した。
 個室は恐らくその棟の中隊長か班長のような責任者が寝起きする部屋だろう。
 部隊長夫人が部屋割りを指示する隙も与えぬ早業だった。
 母の言動に他のご夫人たちも圧倒され、唖然とした面持ちで右手の大部屋の方に入って行った。
馬家溝では場所取りに遅れ、玄関口になったため夜,ソ連兵の「ダワイ」のたびに玄関のカギを開けに行く割の悪い役目を押し付けられた記憶からだろうか。
 それにしても、初めて入る義勇軍隊舎の内部構造など知るはずもない母が、瞬時に個室を嗅ぎ付ける本能や、誰にも有無を言わせぬ迫力には息子のぼくも驚嘆した。
 大部屋は、真ん中の通路の両側に高い床がありアンペラが敷かれていた。
幼児を含むとは言え40人ほどの人間が、荷物と一緒に住まうには手狭で手足も充分に伸ばせない状態だった。
 ここまでぼくたちを引率し、行動を共にしていた男子軍属2人は、成人男子向けの隊舎に分かれていった。


(『戦記クラシック 満州国の最期』太平洋戦争研究会編 新人物往来社)


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