第3部 エミグラントとなって(5)

2006年09月11日 14:11

 戸棚に隠れ大失態

 お勝手の窓越しにソ連兵2人がこちらへ向かって来るのが見えた。
 いつもは夜中に決まっていたが、この日は白昼堂々とである。
 めいめい勝手にお喋りしていたおばさんたちも、いっぺんに緊張した面持ちになり急ぎ散り去っていった。
 「この中に隠れようか?」
 お勝手の戸棚の前にいたぼくは、ふわっとした軽い気持ちで、隣に立っていた4年生の男の子を誘ってみた。
 子どもは男狩りに遭うこともないし、ソ連兵にもなれてきていたので恐怖心はなかったのだが、なぜか説明のつかない衝動が、ふとわいてきたのである。
 作り付けの戸棚は観音開きで、2人が膝を抱えて座るとちょうどすっぽり入れた。
 中から外の気配をうかがっていると、物色している時間はいつもより短く、あっさり引き揚げようとしている様子が感じとれた。
 避難民の集団であり、目ぼしいものはこれまでに略奪されているだろうと、ソ連兵は最初からあまり期待はしてはいなかったようである。
 ほっとした気持ちになっていると、お勝手に入ってくる足音がした。そして戸棚の前でぴたっと止まった。
 間を置かずソ連兵は観音を開けた。まさか中に人間が入っているとは思ってもいなかったらしく、一瞬ギョッとしていたが、ためらわず、ぼくたち2人を抱きかかえて床に降ろした。
 その時、4年生の上着の胸ポケットに壊れたシャープペンシルが差してあった。ソ連兵はそれを取り上げると、彼らの頭の中に何かひらめくものがあったのか、急に目つきが鋭く変わった。
 どういう勘が働いたのか、おばさんたちをマンドリンでうながし、廊下に横一列に並ばせた。
 一人ひとり順番にマンドリンを突きつけ、モンペの腰紐を解かせると、腰の辺りに手を触れては、胴巻きに隠し持っていた虎の子の財布を面白いようにダワイしていった。
 女子軍属の姿は見かけなかったが、部隊長夫人がどこかへ身を隠すよう指示していたのだろう。 
(写真は『満洲昭和十五年 桑原甲子雄写真集』晶文社)

 「あんたたちのような子どもが、こんな所に隠れなくても、ソ連兵が連れて行くわけないでしょ!」
 「ソ連兵がせっかく帰りかけていたのに! あんたたちのお陰でこんなめに遭って!」
 「明日からどうしょう。お金を全部、ソ連兵にとられて……」
 思いがけない戦利品に意気揚々と引き揚げて行く2人のソ連兵を、お勝手の窓から横目に流しながら、ぼくたちはおばさんたちから散々お小言を頂戴していた。
 自分のとんでもない軽率さに、後悔の念が重くのしかかってきたが、もはや事態を巻き戻すことは不可能である。
 ただ神妙に身を縮め、その場を耐え抜くしかなかった。
 「ああ、早く内地に帰りたいわ」
 おばさんたちのいつもの切ない合唱が、ぼくの耳に鋭く突き刺さった。
 母はモンペの紐を解くとき、胴巻きの財布を要領よくモンペの裾にずり落とし無事だった。
 ソ連兵に銃口を突きつけられながら、とっさの判断で難を免れた母の機転と度胸には感心した。
 
(『写真集 ああ北満北小路 健編』図書刊行会)

 原因を作った張本人のところに被害のなかったことが、ぼくにとっては心苦しかった。だが母はそんなことなど、とんと意に介さないふうだった。
 「内地は山や川がとても綺麗で、田舎では家にカギをかけなくても泥棒に入られるようなことはないわ。内地は食糧不足というけど、サツマイモくらいはたらふく食べられるはずよ」
 母からそんな話を聞かされると、まだ目にしたことのない内地が桃源郷のように思えてきた。
 牡丹江で一度、泥棒に入られた。翌朝、靴の片方が残されているのを見て、“小盗児(ショートル=泥棒)市場”に行けば、この片方が売られているかもしれん。探しにいってみようか?」と父と母が相談していた。
 自分の盗まれた物であっても、金はもちろん払わなければならない。
 満洲では、いわゆる泥棒市場が公然と開かれているのだ。カギの要らない内地の田舎って、どんなものなのか、ぼくには想像もつかなかった。
 2年ほど前、石門子に引っ越したとき、母が「ここの景色を見ていると内地に帰ったような気がする」と言ったことを思い出した。
 身近に山や川のあったからだろうか。
 石門子の景色を思い浮かべていると、一度も訪れたことのない内地が無性に恋しくなってきた。
 これまでわがもの顔で歩いていた満洲の大地は、他の民族のものであったのだ。
いったん事が起きれば、他国では生活の基盤が根こそぎ壊れ去る不安定さと、危うさのあることを、つくづく思い知らされた。


(『図説 満州帝国』 太平洋戦争研究会=著 河出書房新社)



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