第2部 逃避行、見えない馭者(10)

2006年08月21日 14:46

 覚めない悪夢

 昨夜も貨物列車の集積場近くで野宿した。
 草むらの上で仰向けに寝そべると、満天に広がる星は地上の出来事とは無縁にまたたいていた。
 満洲の澄んだ夏の夜空にぽつりぽつりと際立ってきらめく星がある。
その強いまたたきは、ぼくの気持ちを重くする。
 わずか10日ほどの間に起こった環境の激変は、悪い夢を見ているのだと思いたかった。
あした目が覚めたら、また元の生活に戻っているのではないか。
それは緊張を強いられるあの寮生活でもかまわない。
淡い願望を抱いて眠りに着くが、目が覚めると願いは空しく裏切られていた。
野宿のあとの夜露にぬれた体はだるくて重い。
立ち上がると体の節々が痛む。
雑のうとズックのカバンを左右にタスキ掛けし、弟の晋を黒い帯で背負った。
 雑のうとカバンには、米をつめた軍足(白い木綿で編んだずんどうの靴下)が1本ずつ入っているのでズシリと重い。
 歩き出すと出足の数歩は辛いが、我慢して動かしているうちに関節の節々がなじみ、苦痛はやわらいでくる。
 この数日の経験で分かるようになった。
 母は背中に一杯荷物を詰め込んだリュックサックを背負い、胸には一番下の弟の修を帯で抱き、片手に風呂敷包み、もう一方で勝三の手を引いた。
 母のリュックにも米を詰めた軍足が2、3本入っている。
 そのほかにガーゼの袋に入った金平糖入りの乾パンなどの携行食もだ。
 兵舎を追い出されるとき、これまでと違って自分たちの食料は、各自携行することになったようだ。
 満洲残留を命じられた軍属2人は30歳前後だろうか。皆から“部隊長さんの奥さん”と呼ばれる部隊長夫人の両脇に並び先頭を進んだ。
 その後を乳幼児を含む婦女子40人ほどの群れが押し黙ってついて行く。
 軍属2人は、敗戦という未曾有(みぞう)の世界で、このようなひ弱な集団の運命を託されることになった。
 自分の妻子がいるからこそ選ばれたのだろうが、他の同僚たちは内地に向かっているのだ(そう思っていた)。 貧乏くじを引かされたと思うことはなかったろうか。
 地図もなく、見も知らぬ広野に放り出されたのだ。
 彼らの精神的重圧は計り知れないものがあったろう。
 部隊長の奥さんは40前後だと思うが子どもはいなかった。
 彼女も部隊長の妻であることに重責を感じていたであろう。
 集団を先導する部隊長夫人と男子軍属の3人は、絶えず相談しながら歩いていた。
 あとで気がついたのだが、鉄道線路を“道しるべ”にしていたようだ。
 ぼくらには、どこを目指しているのか伝わってこなかった。
 もっとも、そんなことはどうでもよかった。
 晋とカバンの重みが肩に食い込んだ。
 ぼくは集団から遅れないことだけに集中した。
 苦痛を避けるため何も考えないよう頭の中を空っぽにした。 
(上の写真3枚は『写真集[満洲]遠い日の想い出』一色達夫、宇野木敏・編 KKベストセラーズ刊)

 早く楽になりたい。
 先のことは考えようもなかった。
 肩と背中の重みでひざの関節はガクガクしてくるし、真夏の照りつける陽光で目がくらみそうになった。
 去年の夏、長崎出身の三浦先生は、「満洲のこどもたちは、よくこんな暑さに平気でおれるね。内地の子どもたちだと、とても耐えきれないよ」と感心された。
 内地の夏は知らないが、校庭を裸足で分列行進させられると足の裏が焼け付くように熱か った。
日射病にかからないように、夏は戦闘帽の後ろに布切れで作った日よけの「帽垂れ」をつけていた。
 よくわからないが、大陸の乾燥した空気が直射日光を焼け付くような暑さにするのだろうか。
 しかし、湿度が低いので日陰に入れば涼しいし、上着は長袖の夏服を着ていた。
 ぼくは満洲の方が夏はしのぎやすかったのではと思っている。
 広野の一本道に入ると、遠方に高さ60?の水晶形をした哈爾浜(ハルピン)忠霊塔がそびえていた。
 2年前の修学旅行で訪れた場所である。
 部隊長の奥さんたち先導者は、大都市ハルピンを目指していたのだ。
 日本人の多く住む大都市の中に流れ込めば心強いし、また衆人の目が治安を支えてくれるであろう。
 現地人の暴徒から身の危険を守るには、いまは同胞だけが頼りだ。
 途絶していた情報が得られれば、今後の身の振り方も考えられよう。

 余談だが、この忠霊塔付近で開拓団の男性が銃殺される「哈爾浜忠霊塔事件」が、ほぼ1カ月後の9月18に起きている。
 浜江省阿城県に天理開拓団がある。ソ連兵が9月16日、同開拓団に押し入り、30代から60代の男性ばかり26人を元日本兵と見てかたっぱしから連行し、弁明もないままに2日後の18日、哈爾浜忠霊塔の壕内で銃殺した事件である。
 同開拓団は全国の天理教徒で組織され1160人が入植していた。そのうち402人が敗戦直後から8カ月間に死亡した。
 死因は流行性感冒が全体の半数を占め、続いて栄養失調、肺炎など。銃を持った中国暴民に襲撃されて亡くなったのは12人である。(『戦記クラシックス 満州国の最期 「満州開拓団27万人の逃避行」ノンフィクション作家 合田一道著』太平洋戦争研究会=編 新人物往来社)
(写真は『写真集 ああ北満』北小路 健編、図書刊行会)




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