第2部 逃避行、見えない馭者(9)

2006年08月15日 10:01

 満服姿の同級生

 兵営の門前には、鉄条網越しに日本人目当ての満人の物売りたちが大勢群がっていた。
 乾ききった地面から砂ぼこりの舞い立つ昼間の強い陽光の下で、ゆでトウモロコシ売りや、黄色いまくわ瓜を大きなざる2つに盛り天秤棒で担いできた男、油で揚げた得体の知れない菓子とかソーセージなどを手提げのついた籠に入れた小孩(ショウハイ=子ども)たちが、しきりに売り声を張り上げていた。
 買い食いする金を持たないぼくは、売り子の前をただ眺めながら歩いていた。
 「徳広君!」、背後から突然、声をかけられた。
 振り向くと満服(マンプク=黒い木綿の中国服)姿の小柄な小孩(ショウハイ)が突っ立ていた。
 左手に自分の身丈ほどの捧切れを持ち、右手はドンゴロスの袋(麻袋)を大国主命のように肩にかついでいる。
 満人の小孩に知り合いはないし、見知らぬ土地でもある。< 不審に思ったが、牡丹江の円明校で3年か4年生のころ同じクラスにいた高橋だと、すぐ分かった。
 彼には奇妙な癖があった。
 顔面の筋肉に異常があるのか、両目をギュッ、ギュッとつむると同時に、口をタコのように突き出す。
 そして、胸がつかえるのか、ときどきこぶしで胸部をとんとん叩く。
 そんな仕草が間歇的に起きるのだ。
 一種の病的現象なのか、彼自身の意思では抑えることが出来ない症状のようだった。
 円明に在籍した期間は短く、学校もよく休んでいた。
 いついなくなったかすら気付かなかった彼が、ぼくの名前をよく覚えていたな、と感心した。
(上の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)

 彼が在籍した期間は、女学生がモンペを着用するようになる前である。
 というのは、彼が牡丹江の街中で女学生のスカートめくりをやったからだ。
 その一件が学校に通報されると、教壇の前に立たされ、先生が彼の悪事を皆の前で暴露し、頭のてっぺんにげん骨を1発ねじ込んだ。
 いつもの目ギュッギュッは何となく神妙な態度に見えるのだが、タコの口と胸トントン、これがよろしくない。
 先生を小ばかにしているようで、不謹慎きわまりなく受けとられた。
 ぼくらが性的知識に未成熟だったせいか、しょぼくれたチビ助が女学生のスカートめくりすること自体が理解できないうえ、軍国少年の正義感を逆なでした。
 気味の悪い所作のうえに、風呂や着替えもしないのか、近寄ると鼻を摘まみたくなるほど悪臭が漂っていた。
 お互いチビ同士で席が近かったこともあり、閉口していた思いがある。
 ぼくは矢継ぎ早に、なぜ満服を身にまとっているのか、両親はどうしたのか、どこで寝起きしているかなど、訊ねてみた。
 だが、彼はなぜか答えないで、ぼくの質問をそらした。
 「徳広君、トウモロコシ食べないか?」
 金を持たないぼくは黙っていると、トウモロコシ売りの屋台に悠然とした足取りで近づいて行った。
 「リャンガ、トウルチェン(2本で幾ら)?」
 信じがたいほど流暢(りゅうちょう)だった。
 学校ではどこかおどおどし惰弱(だじゃく)に見えた彼が、敗戦国民でありながら満人の大人を相手に堂々と値引き交渉までやっている。
 トウモロコシを手にすると、彼は1本をぼくに気前よく分けてくれた。
(モンペ姿は『写真で綴る日本と世界の100年[完全版]朝日クロニクル 20世紀 第10巻』)

 学校では、4年生で「満洲語」の授業があった。
 教科書では“早く”が「快走(カイツオ)」、“ゆっくり”は「慢走(マンツオ)」だ。
 だが、牡丹江で現地人に通用するのは、前者が「快快的(カイカイデ)」、後者が「慢慢的(マンマンデ)」である。
 学校で習う満洲語は全く実用的でなかった。(「満洲語」でなく「支那語」で、内容は北京官話だったとも。当時、中国を支那と呼んでいた)
 中国は国土が広大だ。
 現地語の違いは日本の方言の比どころではないだろう。
 そのためか、満洲語の授業はすぐなくなった。
 楽しかったのは、先生が一人一人の姓名を中国語読みで教えてくれたことだ。
 ぼくは「トーコン・テーフ」。しばらくは教室内で、お互いを中国語読みの名前で呼び合い、ふざけあっていた。
 鼻つまみ者で日本人の子どもに相手にされなかった彼は、満人の子どもたちを相手に遊んでいたのかもしれない。
 実践で満洲語を磨いたのだろう。 
 高橋と別れ兵舎に戻ると、
 「いまから30分以内に立ち退くこと」
 ソ連軍の命令である。これが彼らのいつもの手だった。
 その度にわれわれの荷物は細っていった。
 今回は支度を手伝ってくれる兵隊もいなければ、倉庫の鍵を開け荷物を取り出す時間もない。
 柳行李の中の荷物は置き去りしたまま兵舎を追い出された。


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