第2部 逃避行、見えない馭者(8)

2006年08月13日 11:07

 赤軍将校と日本昔話

力強かった大勢の兵隊と別れ、ぼくたちは一面坡(イーメンパ)から一駅、ハルピン寄りの珠河街(だったと思う)の駅近くにある旧日本軍兵営跡に収容された。
 満洲残留を命じられた2人の軍属に、これからの行動すべてを託されていた。
 兵舎の中は薄暗かった。
 ひまを持て余し、営庭に出てみると、木製の指令台の下段に腰掛けている1人の ソ連赤軍将校に呼び止められた。
 高級将校であることはすぐ分かった。
 「ダワイ!」を連発する下級兵士とは、明らかに雰囲気が違う。
 腰に拳銃ひとつ。単独で気軽に行動している姿を見て少し意外に感じた。
  日本軍の高級将校のように長い軍刀を腰に帯び、副官や当番兵など従卒を従える物々しさはまるでない。
 自分は情報将校で、若いころ日本の大学に留学したことがあるという。
「ワタシハ 日本ノ位デ中佐デス。(胸の略章を指して)コレハ日本ノ金鵄勲章ト同ジデス。ドイツ ト タタカッテモライマシタ」
 ドイツ戦線で奮闘し、金鵄勲章に値する殊勲を立てたとは想像できないほど物腰の低い柔和な軍人だった。
 堪能な日本語を自慢したかったのか、そこらにいる低学年の子どもまで手招きして集めた。
 そして、
 「ムカシ、ムカシ、オジイサン ト オアバアサン ガ、アリマシタ……」
 桃太郎や浦島太郎、かちかち山など童話を次々話してくれるのだが、中学生のぼくにとっては退屈至極、迷惑な話だった。
 それでも人柄のよいこの中佐の面子をつぶすのは失礼だと思い、真面目な顔で聞いていた。
  そのお礼かどうか、中佐は胸のポケットからドイツ戦線から持って帰ったというドイツ紙幣を一枚、惜しげもなくぼくにくれた。
 日本の紙幣に比べると一回り大きく、印刷も精細な多色刷りで、鷲(?)とハーケン・クロイツがデザインされていた。(高額紙幣らしいので内地まで大切に持ち帰ったのだが、残念なことに紛失した)
 中佐と話をしているうちに、兵舎の入り口付近が何となく気になった。
 先ほどから2、3人の奥さんが、ぼくらの様子を、いらだった目つきでうかがっている。
 中佐と別れ兵舎に戻ると、このご婦人たちはぼくを物陰に呼び、
 「あんたたち! ソ連軍になにもしゃべってないでしょうね! ああやってスパイしてるんだから!」
 とんでもないお門違いである。
 国敗れたとはいえ元軍国少年だ。
 同胞を裏切るよなことを喋るわけがないではないか。
 また、それほど重要な情報を持ち合わせてもいない。
 あの赤軍将校が、情報将校であることすら知らないはずだ。
 勝手な憶測で人をたしなめるとは心外だった。

 スパイの苦い思い出

 “スパイ”というと、いやな思いがある。
 円明校4年のころだった。
 休み時間に鉄棒で同級生数人と遊んでいると、校庭の外から1人の男が声をかけてきた。
 「この学校には生徒は何人いるの?」
 そのような単純な質問だった。
 誰がどう答えたか記憶にないが、その男が立ち去ったあと、
 「学校の人数を聞いたりするのは怪しい! あいつは、絶対スパイに違いない!」
 そのころ少年雑誌などに、国民学校の少年が挙動不審の男を見つけ、後をつけていくと、敵の大物のスパイであることが分かり、大手柄を立てたといったような記事がたびたび載っていた。(上の写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)
 功名心にはやっていたぼくたちは、「そうに違いない!」と全員一致した。
 校庭のすぐ横の交番(「円明」の人文字の写真上方、校庭の外)に一斉に駆け込み、巡査を先導して怪しい男の後ろ姿を追った。
 ところが、ぼくにはさっきの男がどのような服装だったかも覚えておらず、前方を歩いている誰だか皆目見当がつかなくなっていた。
 「あの男です!」
 仲間の1人が男の背を指差した。
 その男は交番まで連れ戻され、簡単な尋問を受けた。
 ぼくたちは、スパイであることに期待を寄せながら、巡査のそばで成り行きを見つめていた。
 結果はスパイでも何でもなく、ほんの数分で容疑は晴れた。
 「大物スパイ発見! 軍国少年が大手柄!」
 ぼくたちが思い浮かべた“お手柄記事”は、うたかたの夢に終わった。
 この男性を特定した奴も、あてずっぽうだったような気がする。
 がっかりして立ち去るぼくたちを、スパイの嫌疑をかけられた男性は何とも言えぬ恨めしげな目で見すえた。
 はた迷惑な子どもたちに向けた、あの無言の目は、哀れみを含んでいるかのようにも映った。


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