第2部 逃避行、見えない馭者(7)

2006年08月07日 16:10

 八月二十一日(火曜日)

〈午前中、軍荷役ニ協力ス。十四時、貨物船春川丸乗船、十六時出帆〉

 先のM・T氏の手記「昭和20年夏」は、次のように続く。
一夜明けると、早朝から貨車に積んであった物資を降ろす作業が、同乗の兵隊たちとともに始まり、それが延々と続けられた。
 昼近くなって、ようやく作業終了を告げられたが、兵隊たちはそのまま作業を続行した。
 待ちかねたようにあちこちに炊飯の煙が立ち込める。
 軍から米・みそ・乾パン・缶詰など夥しい量の食糧を支給された。
 食事の後、生徒も職員も全員でその食糧を手分け携行し、埠頭へ向かった。
 目の前に中型の貨物船が見えてきた。
 そしてこの船に乗船するのだと教えられた。
 午後2時ごろ乗船開始、午後4時ごろ船は汽笛を鳴らし釜山港を静かに離れた。

  

(釜山市街と釜山港 『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[1]朝鮮』毎日新聞社)

 乗客はわれわれ中学生のほかにも大勢いる。
出港して暫らくすると、右舷に船の煙突やマストだけが海中から突き出た異様な光景が目に飛び込んできた。
 「魚雷にやられたんだ」、「いや機雷だろう?」
そんな声に混じって、
 「あっ! あそこにも船が沈んでいるぞ!」、「あっちにもあるぞ!」、「あれー! この船は昨日出航した船じゃないか」
 「浮遊機雷に気をつけろ!」と伝令が飛ぶ。
 皆真剣になって、それらしき物体はないかと、まだ明るい波間に目を凝らした。
 幸い何事も起こらず無事危険地帯を抜け出すことができた。(以上、M・T氏の手記より)

 七三一の部隊員は、百人くらいを一つの単位として上陸用舟艇に乗せられ、山口県の萩の海岸に運ばれ、そこで解散し、それぞれの郷里に向かった。
幹部たちは平壌から飛行機で、日本に帰った。(常石敬一著『消えた細菌部隊 関東軍第七三一部隊』海鳴社)

 福岡中学で解散式、そして別離

 八月二十二日(水曜日)

〈十時、博多入港、上陸ス。福岡中学校に宿営、市役所、中学校ヨリ炊飯、宿営ニツキ便宜供与サル。生徒ノ帰省先再調、距離ノ遠近ニヨリ旅費(一日當リ三十円ノ割ニ支給)糧食ヲ配給。戦災証明書ノ発行、転校書類ノ作成等ニ徹宵ス〉

 M・T氏の「昭和20年夏」は、さらに続く。
 早朝博多湾に入港、10時近くなって上陸が開始された。
 それから福岡中学校で旅装を解いた。
 広い校舎は夏休みのせいか人の気配はなく、大きなプールのみが満々と水を湛え、青い空と白い雲の影を静かに映しているのみだった。
 やがて日が西に傾き校庭に炊飯の煙が漂うと、久しぶりに支給された濃い味の味噌汁と白い米の飯に舌鼓を打った。
 食後、講堂でくつろいでいると、
 「各自が持っている満洲国の通貨を日本の通貨と交換するから」と通達があった。

 八月二十三日(木曜日)

〈八時、校庭ニ於テ、星輝中学校ノ解散式ヲ挙グ〉
〈博多解散時の生徒数(八月九日事件勃発時現在の在校生徒数)、四年六名(二十名)、三年二十八名(七十二名)、二年二十八名(九十名)、一年三十三名(百三名)、計九十五名(二百八十五名)。四年四十五名は白城市通年動員先出動中。(『ソ連参戦侵襲 戦争終結ニ伴フ 本校措置報告書』)

 5時半起床、点呼、朝食に続き、昨日両替を頼んだ金子とともに帰省距離に応じて各自別途に旅費が支給された。
 そのほか便箋半分ほどの大きさの「戦災證明書」を渡される。
 ガリ版で印刷された牡丹江市長承認の最終帰省先までの無賃乗船車證明も兼ねたものだった。
 すでに食糧は昨夜のうちに支給され、雑嚢(ざつのう)は米の詰まった軍足や魚の缶詰、乾パンなどでずっしりと重く膨(ふく)らんでいた。
 午前8時、校門の前に全生徒・職員とその家族が整列して、宇高校長の最後の訓示を粛然(しゅくぜん)として聴いた。
 「本日、ここに星輝中学校を解散する!」「本日以降、帰省先にあって待機し、後命あるまで星輝精神を堅持し、且つ物事にあたり……日本の復興の為に邁進せよ!」
 いよいよお別れである。
 永い間お世話になった先生や友達と別れる時が来た。
 万感胸に迫る思いで、それぞれ名残を惜しみながら左右に分かれて行った。(以上、M・T氏の手記「昭和20年夏」)
 
 古めかしい言葉を用いると、牡丹江市で全員枕を並べて討ち死にするはずだった残留寮生たちが、早々と内地に引き揚げることが出来たのは奇跡でしかない。
 仮に夏休みが返上になっていなかったらと想像する。
 国境の連中は、帰省している間にソ連軍の攻撃にさらされ、命を落としていただろう。
 また逆に人手が1人増えたことで助かった家族があったかもしれない。
 すべては、己の意思などとは一切かかわりない「見えざる神の手」によって支配されていた。
 「早く帰れたことがよかったのかどうか」と、帰国後のことを回顧する者もいる。
 敗戦直後の混乱期、食糧難の中で生きるのが精一杯の親類縁者のもとへ、ろくろく顔を見たこともない居候が、何の前触れもなく突如、転がり込むのだ。
 いい顔をして迎え入れてくれる親類縁者は少なかろう。
 父親が復員するまで、居場所を探し求め、どれだけ職を転々としたことか、と。
(右上の写真、寧安付近で 『満洲昭和十五年 桑原甲子雄写真集』晶文社)
 
 毎日新聞社に復職され、要職を歴任された永井先生の寄稿文「大陸の思い出」(『同窓会誌』)の一部を抜粋し、ここで母校の話を締めくくりたい。
 昭和16年夏、関東軍特別大演習の大動員で召集された。
秘密の動員だったので歩兵上等兵の身ながら、(長身の先生は)浴衣と下駄履きで応召。
 神戸を出帆し、南朝鮮の麗水という小港に上陸。
 そこから貨車に詰め込まれて数日、満洲の牡丹江駅で下車。
 そこから東に8?離れた掖河(えきか)の歩兵連隊まで行軍した。
 途中の食事が悪かったのか一同下痢気味。
 隊列は乱れる一方、目指す営門を入る時は、長い一列になってポツリポツリとたどり着く始末。
 営庭の高台に立って迎えてくれた連隊長も呆然自失。
 翌日は兵長、上等兵のオッサン連を前にして「それでも皇軍の精鋭か!」と大目玉を食った。
 わずか8?とはいえ、炎天下の満洲の道は「要注意だ」と肝に銘じた。
 満洲を思い出すとき、きまって頭に浮かぶのは、あの“道の遠さ”だ。
 新聞社のある年の入社試験で作文に「道」という題を出した。
 その答案の一つに心を打たれたことがある。
 ソ連軍の侵攻に追われて、北満から南を目指して逃げに逃げた思い出を書いたものだった。
 真っ暗な夜道を当時6歳の自分の手首を握りしめた母親が、転んでも倒れても絶対離さず、腕が肩から抜けるかと思った痛みと、夜道の果てしなさが一生忘れられない、という文であった。

 
(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)



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