第2部 逃避行、見えない馭者(5)

2006年08月05日 15:48

 初めて知る原子爆弾投下

 ぼくたちは列車から降ろされ、ハルピン飛行場までバスで移動させられた。
バスが通る横を兵士たちは雨でぬかるんだ10里(約40?)の道のりを行軍した。
 夕暮れ近くなると泥沼に抜かりあえぐように歩を進める。
 その兵隊たちの前や後に馬を走らせ、馬上から叱咤督励(しったとくれい)する将校の姿があった。
 飛行場に着くと暗闇になっていた。
弟の晋を帯で背負って飛行場のエプロンを歩いていると、少年雑誌のグラビアなどでなじみの日本陸軍の爆撃機 “呑竜(どんりゅう)” の機影が他の飛行機と並んで見えた。
 実物の爆撃機を敗戦後にお目にかかれるとは、思いもよらなかった。
 講堂のような大広間に全員収容された。
 海林航空隊の部隊長が全員の前に登場し、天皇陛下のご英断で“ポツダム宣言”を受託し、日本は連合国軍に対し「無条件降伏」したことを公式に伝えた。
 さらに「天皇陛下の勅語に従って、今後は“忍び難きを忍んで”生きていかねばならないと訓辞した。
 初めてお目にかかるこの大佐の襟章を着けた部隊長は短躯(たんく)で小ぶとり、そして出っ張った腹を幅広い帯革で支えていた。
その姿がいかにもぼくのイメージにある部隊長然として見えたのは、山下泰文大将ら高級軍人の恰幅(かっぷく)のよい容姿を、少年雑誌などで見過ぎていたせいだろう。(左写真『日本の戦歴』毎日新聞社)
 部隊長が壇上を去ると、京都帝大出身という若い男が大きな黒板を前に、
 「広島と長崎に落とされた新型爆弾は“原子爆弾”と呼ばれるもので、わが国でも仁科芳雄博士を中心に研究がすすめられていた」と話し始めた。
“中性子”とか“陽子”といった用語を交えながら原子爆弾の原理を、黒板で説明してくれたが、聞いている側はどれほど理解できたか分からない。
 ぼくは、それよりも弟らと一緒に、配られたばかりの航空食用のチューブ入りチョコレートや、マーブルよりやや大き目の糖衣で包んだ甘い栄養食の方に気をとられていた。
(右上のハルピン駅は『図説 満州帝国』 太平洋戦争研究会=著 河出書房新社。100式重爆撃機キー49・呑龍は『太平洋戦争 日本航空戦記』文芸春秋 臨時増刊) 

 夜間に列車が正面衝突

 翌日、ふたたび列車に戻ると列車は牡丹江方面へ逆戻りを始めた。
 来る時と同様、走ったり停まったりの繰り返しだったが、また梅林に帰れるのだと全員喜びの色を隠せなかった。
 夕方、途中の駅に停まるといつ出発するともなく夜を迎えた。
 有蓋貨車の中で寝ていると突然、大音響とともに大きな衝撃が伝わってきた。
 驚いていると、列車の横を、
 「誰かロシア語の通訳はおらんか! ロシア語の通訳は!」
 大きな叫び声とあわただしい靴音が、貨車のすぐ横を駆け抜けて行った。
 しばらく経つと、ぼくたちの乗っていた列車に別の列車がぶつかってきたのだという報せが入った。
 真っ暗闇の外の騒ぎを気にしながら貨車の中で落ち着かない一夜を明かした。
 翌朝、われわれは列車から降ろされた。
 列車の横を誘導されてぞろぞろ歩いていると、デッキに乗っていたらしい中国人の男が、ボロの布包みを一つ抱きかかえたままの状態でデッキの間で押しつぶされ死んでいた。
 ちょっと先へ行くともう一人、連結器にでも腰を掛けていたのかその間に挟まれ宙ぶらりんになっていた。
 衝突してきた側の列車にも日本軍の部隊が乗っており、そちらの列車では多数の死傷者が出たという。
 さらに話に尾ひれがついて、暑さにかまけて有蓋貨車の屋根の上で寝ていた兵隊たちは、衝撃の弾みで転落したが大した怪我もなく助かったと、まことしやかに伝わってきた。
 日本兵の死体は夜明けまでにすべて近くの土中に埋葬したと言う。
 その部隊の部隊長は大勢の部下を殺したことの責任をとって割腹自害したというが、こうした情報がどこから流れてくるのか分からなかった。(階級章は『戦争案内』 戸井昌造著・平凡社より)


(『図説 満州帝国』 太平洋戦争研究会=著 河出書房新社)


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