第2部 逃避行、見えない馭者(2)

2006年07月27日 14:25

 遅々と進まぬ避難列車

 避難列車内で、夕食は食パンが支給された。
 女子軍属たちは食パンの白く軟らかい綿の部分だけつまみ出して食べると、外側の耳の部分は、
 「こんなところ、まずくて食べられないわ」
 いかにも上流階級ぶった態度で、列車の外に投げ捨てていた。
 寮で慢性的な空腹に悩まされていたぼくは、ぜいたくな彼女たちの仕草を目にすると無性に腹が立った。
 それにしても食パンを口にするのは、国民学校4年生以来ではなかったか。
 とにかく学帽が戦闘帽に統一されてから学校生活の質も極端に落ちてきた。
 昭和17年ごろ、月に1回か半年に1回だったか忘れたが、学校で昼食用に食パンの配給があった。
 値段は幾らだったか記憶にないが、事前に申し込む必要があった。
 注文した児童は、その日の昼食時間になると先生の教壇の前に並び、1人1斤(きん=350~400?)ずつ受け取ると席に戻った。
 ぼくたちはその日が来るのが待ち遠しかった。
 家から紙に包んで持っていった砂糖をパンにつけて食べた。
 飲み物は、当番がヤカンで弁当箱のフタに注いでくれる白湯(さゆ)のみ。
 それだけで、ぼくたちの心はうきうきしていた。
 そんな喜びを与えてくれた食パンを、彼女らは粗末に扱っている。
 恥ずかしながら、ぼくは彼女らの目にとまらないようにパンの耳まで余さず食べていた。

 話をさかのぼると、昭和15年の小学校2年生ごろまでは昼食代に家で10銭玉を貰い、学校の売店でジャムパンとクリームパンを買うことが出来た。
 昭和16年4月から尋常小学校の名称が国民学校に変わってからだ。
 帳面(ノート)や鉛筆など学用品の質がどんどん落ちていき、校内の売店もいつしかなくなっていた。

 列車は途中でよく停車した。
 牡丹江―ハルピン間は355?だ。
 2年前になる。円明校5年生春のハルピン修学旅行では、朝、牡丹江駅を発って夕方には着いていた。
 避難列車は、まだ中間地点の一面坡(イーメンパ)にも達していなかった。
 途中の駅でもない所に停車したまま一夜が過ぎた。



左は一面坡の駅舎。右は一面坡国民学校 向かって右半分は義勇隊の隊舎
(『写真集 ああ 北満 北小路健編』図書刊行発行)


 ウラジオ占領が一転、無条件降伏に

 翌日になると午前中に、
 「日本軍の落下傘部隊がウラジオストックを占領しました!」
 朗報が後方の列車から口づてに流れてきた。
 にぎやかな女子軍属たちが、いっせいに歓声をあげた。
 やはり日本軍は勝っているのだ。
 ぼくは「思っていた通りだ。避難するなんて馬鹿げたことだった」と強く思った。
 だが、それもぬか喜びに終わった。
 午後になると一転して、
 「日本は無条件降伏した」
 にわかには、信じ難い情報に変わった。
 女子軍属たちは、
 「さっきのウラジオストック占領は嘘でいいから、日本の降伏も嘘であって欲しい!」
 ニュースの逆転に願いを込めながらくやしがった。
 ぼくもこの時ばかりは彼女たちと同感で、虚報であることを心の中で祈った。
 「日本人は最後の一人になっても戦うのだ!」
 「日本には、ドイツのような無条件降伏は絶対あり得ない!」
 「神国日本は蒙古襲来の時のように、いざとなれば神風が救ってくれる!」
 日米開戦以来、学校でいつも聞かされていたぼくは、降伏の報を聞いてもまだ半信半疑でいた。しかも「無条件」がつくのだ。

 国民学校3年生だった昭和16(1941)年12月8日早朝のことを思い出す。
 「本8日未明、西太平洋方面においてわが軍は米英と戦闘状態に入れり……」
 勇壮な軍艦マーチ入りの大本営発表がラジオで放送された。
 この発表を聞いた瞬間、「日本は負ける」、そんな予感がぼくの脳裏をかすめた。
 兄に世界地図で「日本とこの国が戦争になったのだ」と教えられ、アメリカと日本の国土の大きさを見比べて、単純な直感が走っただけかもしれない。
 ともかく、「日本が負ける」と思った確かな記憶がある。
 登校すると先生は黒板に地図を掲げ、
 「日本はアメリカに向かって弓を引いた形をしているから絶対に勝つ」
 「アメリカにはヤンキー魂というのがあるが、むこうは利己主義の国で日本の大和魂とは違う。だから日本がアメリカに負けるわけがない」
 などと力説した。
 その後の華々しい戦果によって、ぼくの頭の中は「必勝」の信念にこり固まっていったのだった。

 列車は牡丹江とハルピンの中間にあたる一面坡のホームに止まった。
 駅に着いてしばらくすると、いつどこから来たのか中国人の苦力(下層中国人労働者)のように薄汚れた顔をした15、6歳の少年2人が、客車の窓の下にしゃがみ込んで握り飯をむさぼっていた。
 頭に被った戦闘帽が、かろうじて日本人であることを証明していた。
 客車に乗っていた部隊長婦人ら将校夫人たちの誰かが、握り飯を与えたらしい。
 彼らは一面坡の満蒙開拓青少年義勇軍の隊員だった。
 ぼくはこの時初めて、青少年義勇軍が満州に存在していることを知った。


(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)



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