第2部 逃避行、見えない馭者(1)

2006年07月26日 16:48

 不気味な見物人たち

 海林駅に仕立てられた避難列車に、ぼくたちは乗り込んだものの予定の午後3時になっても一向に発車しない。
 列車はハルピンを経由して新京に向かうのだと聞かされていた。
 何両編成だったか記憶にないが、長い列車は2両(?)の客車のほかはすべて貨物車だった。
 一部の殿(しんがり)部隊を残し、部隊長以下、梅林航空隊に所属する軍人軍属とその家族全員が乗った。
 総員何百人になるのかしらないが、列車にはこれらの人員を1年間まかなうだけの充分な食糧が積み込まれているという。
 客車は部隊長ら将校が1両、その家族がもう1両に乗り込んでいた(?)。
 軍事郵便所は軍属あつかいで、テントでおおった無蓋車が割り当てられた。
 車両の屋根の上には、丸めたセンベイぶとんとデコボコの鍋、やかんなど世帯道具一式を背負った貧しい身なりの中国人家族が、連結器には手ぶらで身軽そのものといった単身の中国人が陣取っていた。
 日本人の駅員や軍の関係者が、それを見とがめて追い払う。
 追っ払われたその時はしぶしぶ列車を離れるが、しばらく経つとまた元の状態に戻る。
 ハエを追い払うのと同じだった。
 繰り返しているうちに、追い立てる側も根負けしたのか顔もにが笑い混じりになっていた。
 しまいには、駅員や兵士たちは退屈しのぎにやっている風にさえ見えてきた。
 このように戦火を避けて逃げようとする身軽な中国人たちとは対照的に、物見高い中国人たちがホームの鉄条網の外に群がっていた。
 両腕を胸の前に組み、薄気味悪い笑みを浮かべ、悠然とした構えで日本人の避難の様子を見物している。
 避難する中国人たちに比べると、こちらは一様に身なりもよく裕福にみえた。
 日ごろ民族的優越感から尊大に構えていた日本人の浮き足立った様を、せせら笑っているかのようだった。
(右上の写真は『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集』「見物人 吉林で」(晶文社))

 彼らの笑みには、われわれ日本人が去ったあと、残された家財道具など一切合切を略奪するもくろみを含むニュアンスもあったのだろう。
 昭和19年春ごろには、中国共産党工作員は日本軍の戦況を中国人に伝えていたから、中国人は大本営発表を信ずる日本人より、日本の戦況、つまり敗戦の近づきつつあることを知っていた、という。
 この日の午前中、時間を持て余したぼくは、海林の街をぶらついた。
 目的もなく歩いていると、海林国民学校で同級だった生玉(いくたま)が家の前に落ち着かない様子で立っていた。
 「いつ避難するの」と尋ねると、「一般の民間人は明日(14日)」だという。
 不安そうな彼の顔を見ると気の毒で、ほかに話すこともなく、すぐ「さよなら」した。
 近隣の家が中国人だった彼の動揺した様子は、ぼくらより切実だったからだろうか。
 夕方、日が沈みかけるころになってようやく列車は海林駅を出た。
 ぼくたちの乗ったテントの無蓋貨車には、20歳前後の若い女子軍属(軍の女子事務員や看護婦など)が5、6人同乗していた。
 女子軍属は男子の制服同様、草色がかった上着とズボンで、頭に戦闘帽だった。
(制服は男物に比べ小ぶりだったが、ズボンが前開きになっていたかどうか気がつかなかった)。
 列車が動き出すと、彼女たちはまるで修学旅行気分で、はしゃぎだした。
 そのころ流行の「ラバウル小唄」を文字って、
 ♪さらば ハイリンよ また来るまでは しばし別れの涙がにじむ
 テントの前方に集まり、外に向かって合唱を始めた。
 なんとなく哀調を帯びたメロディーなのだが、彼女らの歌声は明るく、悲壮感どころか感傷のかけらも感じられなかった。
 彼女たちだけでなく、ぼくたち誰もがこの避難は一時的なものだという思いが、いまだに強かった。



(上の写真は『戦記クラシック 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社より)


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