第1部 運命、それぞれの岐路(15)

2006年07月21日 16:52

 残留寮生たちも転進

 8月12日。ぼくや叔母の乗った避難列車が発車した後の牡丹江駅構内の惨状や混乱ぶりを、ぼくは知らない。
 その人の居合わせた場所や時間のちょっとしたずれで、様相が激変し目撃体験がかくも違うものなのか。
 この日その時刻に、その人が居合わせた現場の様ざまな情景を、次の著者の手記から引用する。
 12日、午後2時を過ぎたころだろう。
 私たちは構内の後方に待機している客車だけで編成された、1本の列車を発見した。
 みると、腰掛に2人掛けで充分の余裕がある。
 私たちが列車に乗り込もうとすると、なかからはしっかりとドァーを閉じて開けてくれない。
 「この列車は桂木斯(ジャムス)からきたさいごの疎開列車で、満鉄社員専用のものだ。一般人はのせない」
 この時1人の憲兵上等兵が飛びあがって、大きな声で怒鳴った。
 「それでも日本人か。なにが満鉄の疎開列車だ。乗せないというなら、貴様たち全部を引き下ろすぞ……」
 一瞬しんとしてひとりが不承不承ドァーを開けた。
 私たちは列車に飛び乗った。
 他の一団二団もそれぞれ乗車して、たちまち車内は、身動きもできない始末となった。
 私たちの列車が動き出したのは午後5時を回っていただろう。
 列車が拉古(ラコ)のあたりをすぎたころ、車窓から頭を出して遠ざかりゆく牡丹江の空を見た。
 火を放ったのだろう、第二新市街の軍衙(ぐんが)あたりに幾条もの煙が立ちのぼり牡丹江さいごの日を悲しくいろどっている。(『秘録大東亜戦史 満洲篇』(富士書苑発行)「歴史の足音」福沢卯介著より)

 <八月十二日十五時三十分、東満総省次長ヨリ牡丹江地区強制引揚命令アリ、ヨッテ学徒隊ニ対シ新京地区転進下令。本校ハ依然星輝寮ニ籠城シ、最期ノ一戦ヲ図レルモ命下ルトコロ躊躇逡巡ヲ許サレズ。校旗ノモト百二十名(外に家族四十三名同伴)急遽転進準備ヲ整ヘ、十六時校門ヲ進発ス〉
 
 最後まで残って牡丹江防衛にあたると意気込んでいた残留寮生と教師たちは、東満総省次長よりの「強制引き揚げ」の命令で新京地区へ転進することになった。
 牡丹江駅に近づくと、今まで見たこともないものすごい群集であふれ返っていた。
 駅の構内や線路の脇には、あちらこちらに物資がうずたかく野積みにされ、その陰に幼児の遺体が横たわっていて、閉じた眼(まなこ)や、口の周りには、既に蝿が群がり、時折白いのが見え、思わず目をそらしてしまった。
 私たちは、駅構内の引込線の線路上に止まっている客車の近くで、長い間次の命令を待って待機していた。
 客車の周辺に次々に押し寄せる群衆に、銃剣を構えた兵士が客車の昇降口と連結器の間に点々と立って、近づく者は一歩も入れまいと凄い形相(ぎょうそう)で威嚇(いかく)していた。
 やがて、陸軍少将の襟章を着けた軍服姿の校長の訓示があり、
 「よいか! 全員、どんな事をしても、絶対に目の前のこの列車に乗り込め!」
(上の写真は『満洲慕情 全満洲写真集 満史会編』 満鉄の機関車・謙光社)

 校長や軍の派遣教員が一斉に抜刀するのが見えた。
 そして銃剣で警護している警備兵たちに向かって大音声で、
 「陸軍少将宇高黆(たけし)! 命令だ! そこを退(ど)け! 皆突っ込めー!」
 「ワーッ!」
 号令一下、生徒隊は鬨(とき)の声を上げて列車の窓や乗降口に殺到して行った。
 すると警備兵たちは、急に後ずさりして姿が見えなくなった。(『星輝中学校同窓会誌』「昭和二十年夏」M・T(当時3年生)著より)

〈発車著シク遅延シ、二十二時ニ至ル。折シモ避難民殺到シ、且ツ官街・会社等ノ焼焔天ニ柱シ凄惨ナリ〉
            
 満員の避難列車の通過を見過ごし、最終列車に乗車が決定したのは駅に到着して6時間後の22時ごろだった。
汽笛を鳴らして機関車2両連結の長い列車がホームに入った。
 「列車に乗り込め!」の命令で、われ先に乗車しようとするが列車内には、人と人とが重なり合い、とても中に入り込む余地はない。
 派遣教諭は大声で、
 「乗車! 乗車!」
 と叫ぶ。
 どのようにして乗車したか分からない。
 人の上に乗っかる形で息苦しい車内に割り込んだ。(前掲同窓誌『昔日の残考』O・T当時3年生)
                
  圧死した教諭の2人の幼児

 八月十三日(月曜日)

〈十八時ハルピン駅着。雨シキリナリ。満鉄社員倶楽部ニ宿営(M教諭 家族ノ事故ニヨリ横道河子下車)ヲ除キ異常ナシ〉。
 牡丹江駅で深夜便乗した避難列車の中で、M教諭(満洲語・音楽担当)の2人の幼児が、車内に殺到した避難民と荷物が折り重なり合い、座席の間で圧死する不幸があった 悲嘆にくれた教諭夫妻は、子どもを荼毘(だび)に付すため、途中停車した横道河子(オウドウカシ)駅で下車された。
他の先生がたが、
 「とにかく、ハルピンまで乗って行って、それからにしては」
と強く引き止めたが、
 「どうしてもここで降りる」
 と聞き入れなかったそうだ。

 
(写真は『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』 毎日新聞社)




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