第1部 運命、それぞれの岐路(14)

2006年07月17日 20:28

 車窓から海林駅で下車

 秀子叔母(25歳)たちと一緒に牡丹江駅で待機している避難列車に乗った。
 割り当てられたのは客車だった。
 2歳の長男を抱いた叔母とぼく、その向かい側の座席には年配の奥さんと新婚ほやほやのご婦人が座った。
 夫が特務機関員の新婚さんは、「あの人が牡丹江防衛に残されたまま別れていくのが悲しい」と目頭をハンカチで押さえすすり泣いていた。
 横に座っていた奥さんと叔母が、「ほんの少しの間だから」、「またすぐ牡丹江へ戻って来るのだから」、としきりに慰めた。
 まだ、日本人のほとんどが避難は一時的のものと安易な判断をしていた。
 列車はなかなか発車しない。
 車窓からぼんやり外の景色を眺めているうちに、「牡丹江防衛のために残って戦うんだ!」と、意気込んでいた同級生たちのことが思い浮かんだ。
 「敵前逃亡!」、「卑怯者!」の言葉が、ぼくの頭の中を交錯する。
 いま、この避難列車から降りて寮に戻り、皆と一緒にソ連軍と戦ってみたいという衝動にかられた。
 だが、それを口にすれば叔母に「とんでもない!」と、たしなめられることは歴然としている。
 自分の頭の中だけにとどめておいた。
 列車内は、いつしかすし詰めの状態になっていた。
 夕刻近くなってやっと駅を出た。
 間もなくすると列車は海林駅に停まった。
 叔母は駅員に、海林の日本人の避難状況を尋ねた。
 「海林の日本人の避難は明日からです」
 軍事郵便所の人たちも、まだ避難していないことが分かった。
 叔母にうながされ、ぼくはギュウギュウ詰めの車窓から駅員の手を借り、雑のうを肩にかけたままホームへ飛び降りた。

 「なぜ、さーちゃん(ぼくのこと)を海林なんかで降ろしたんだ!」
 後日、叔母は新京で再会した叔父から叱責されたそうだ。
 「駅員にしっかり確かめてから降ろしたんだから、絶対、大丈夫よ!」
 叔母はそう言い返したとか。
 「もし、あそこであんた(ぼく)を降ろしとらんかったら、お姉さん(母のこと)らはみんな満州で死んでいたんよ」
 戦後、岡山弁混じりになった叔母の言う通りであった。
 その後の母とぼくたちの逃避行を振り返れば……。
 

 満洲最後の散髪

 軍事郵便所には、各部隊から兵隊が郵便物を受領に来る。
 そして、郵便物の仕分け業務なども手伝う。
 ぼくが帰宅すると、郵便所で業務を終えた郵便受領の上等兵が、目の前のわが家へ顔を出した。
 召集前までは床屋をやっていたとかで、ぼくの頭を見るなり、母に家のバリカンを持ってこさせた。
 本職だけあって父のように髪の毛を引き抜くような手荒なことはしない。
 痛さで顔をしかめることもない。
 もちろん虎刈りになるはずもなかった。
 久しぶりに本物の床屋にかかり気分は爽快だった。
 これが、ぼくの満洲で最後の散髪だった。
 父(38歳)は、朝鮮の京城(現ソウル)へ出かけたままだった。
 目的は京城で一家を構えていた33歳の弟・清に招集令状がきたため、妻子や同居していた祖母たち一族郎党を満洲に連れてくるためである。
 満洲は食糧事情や生活物資の面で内地や朝鮮ほど困窮していない。
 特に軍関係者は満洲在住の民間人に比べても恵まれている。
 そうした事情もあって、わざわざ内地の家族を満洲へ呼び寄せる人たちもいた。
 同級生の中にも空襲の激しい東京から、4月早々転校してきたOがいる。
 国境守備隊長の父の元に転居していた彼の母と姉は、生死不明のままである。
 元関東軍報道部長だった長谷川宇一氏の手記「栄光消ゆ」(『秘録大東亜戦史(満洲篇)』富士書苑)の中に、次のような述懐がある。
ソ軍の進駐が必至であると断定し確信していたわけではない。心中ひそかに、その進駐を望まぬところから、少なくともこの冬を持ち越すもではあるまいかという希望的観測も手伝ったわけである。
 (中略)関東軍作戦課が命じた国内防衛の諸施設の完了期は、最初は10月となっていたと記憶している。こういう具合だったので、(中略)私はあの終戦の(昭和20年)4月に、東京に残しておいた母を、新京に招(よ)んだのである。
(中略)母は敗戦後引揚げの途中、平壌で死んでしまったが、母を殺すに至った事の不幸の罪は免れないが……
 関東軍司令部の中枢部にいた高級将校でさえ、このような過誤を犯している。
 
 わがままな祖母(57歳)や肺結核を患っていた清の妻ヨシエ(30)、それに学齢前の長女。父の妹の三枝(27)は夫が出世し、男の幼児を抱えていた。

〔前列左より、母、勝三(生後3カ月)、本人(小1)、兄(小4)、ヨシエ(清の妻)
後列左より、秀子叔母、清叔父、三枝叔母 昭和14年5月、京城の写真館で〕

 もし、叔父の召集令状が1週間ほど早いか、ソ連軍の攻撃開始が当初の基本計画どおり8月22日から25日の間であったとしたら、わが一族郎党は悲惨な運命にほんろうされていたであろう。
 Xデーを9日に早めたスターリン大元帥の絶対命令が、わが家にとって不幸中の幸いだったといえるかどうか。

 避難列車の出発は明日の午後3時、一家族あたり柳行李(やなぎごうり)2個まで列車に積むことができるという達しがあった。
 散髪が終わると、ぼくも母の避難準備を手伝った。
 国民学校1年の勝三(かつみ)と晋(すすむ、生後1年5カ月)、年子の修(おさむ、同10カ月)の弟3人も、ただならぬ気配を感じとったのか、ぼくたちの行動をそばで神妙に見つめていた。
 
いまでも残念でならない覚えが一つある。
 アルバムを行李に詰めるときだった。
 写真は「はがして手元に…そのほうが安全だ」
 そんな指令が突然、ぼくの頭の中をかすめた。
 だが、なぜかとどまってしまった。
 結局、行李はその後一度も開けることもなくソ連軍の手に渡った。
 彼らに日本人の見知らぬ子どもの写真など関心はなかったろう。
 アルバムから散乱した写真は、ソ連軍兵士の靴で踏みにじられ、哀れな姿をとどめていたのではないかと想像する。
 
 勉強はできず、おっちょこちょいで注意力に欠けるぼくは、父や兄にいつも「ぼんくら頭」呼ばわりされていたが、その代償として霊感というのか、無知だからこそ得られる予知能力のようなものが働くことがままあった。
 
 円明校4年のときだったと思う。
 40人ほどのクラスに運動靴が2足配給になった。
 先生は、くじ引きで決めることにした。
 ぼくの番になると迷わず左から2番目の線を選んだ。
 絶対にこれだ!
 確信した通りだった。
 子どものころは「誰にでも、そのような経験はあるよ」、と言われればそれまでだが。

 ともかく、この時は不覚だった。
 その後の放浪生活を考えれば、内地まで写真を持ち帰れたかどうか分からない。 だが、可能性はゼロではなかったと思う。
 思い出深い石門子校の写真を含め、すべての写真を失った。

 話はもどるが、ぼくが父や兄に馬鹿にされるのは仕方なかった。
 石門子へ転校する5年生の秋まで、2ケタの掛け算や分数の計算も出来なかった。
 本屋で父から貰った1円札を手のひらににぎったまま、あれこれ本を探しているうちに失っていることが数回あった。
 一緒にいた母や兄が平積みの本の間を探してくれるが、もう遅い。
 いつも、それに似たようなことをたびたび繰り返していた。
 算数は、石門子で三浦先生から丁寧に教わり、少しは分かるようになってはきたけれど。

 海林飛行場の施設を爆破する音が間を置いて轟(とどろ)いていたが、夜になるとソ連軍の大砲の砲弾が近くに飛来しているようで、ますます人心を不安に陥れた。
 母は、ソ連軍がすぐそこまで迫って来ているかのような錯覚にとらわれたのか、軍事郵便所のほかの家族(といっても婦人2人と幼児1人)を誘い、大勢家族が住んでいる陸軍官舎で夜を明かすことに決めた。
 官舎は駅から離れた反対方向にある。
 わざわざ駅から遠くへ向かう母の気持ちが分からなかった。
 その途次も飛行場の方から爆破音が間歇的に耳を襲った。
 年子の弟を、母とぼくは1人ずつ黒い帯で背負っていた。
 悲壮な顔つきになって歩いていた母が、いまの自分たちと同じような場面を「ニュース映画で見たことがある」と口にした。
 ヨーロッパ戦線の緒戦で、ドイツ軍がフランスに猛攻撃を下していたころのフィルムだろうか。
 母の貧しい想像力の中で、ドイツ空軍の爆撃や砲弾に追われ、逃げまどうフランスの民衆と重なり合ったのであろう。
 臆病風に吹かれ、気が動転しているかに見えた母が、自分たちの現状をどこか客観的に眺めている。
 ぼくは不可解な思いで聞いていた。


(『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)



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