第1部 運命、それぞれの岐路(12)

2006年07月06日 13:12

 ソ機のスピードに驚嘆

〈午後四時市内ニ爆撃並ビニ機銃掃射アリ、校舎、職員、生徒ニ異常ナシ〉

 ぼくは寮にもどってみた。家に帰れない国境の1年生が、まだ大勢残っていた。
 授業は中止で、戦闘訓練もなく、みな手持ちぶさたのようだった。めいめい勝手なことをやって時間をつぶしていた。
 「牡丹江市の防衛につくことになった」
と、木銃を手に意気込んでいる奴もいる。
 星輝寮では1室8名で3年生の室長がいたが、この元営林局跡に引っ越してからは1年生だけとなり、みなのびのびしていた。
 当時の中学校はどこでもそうだが、上級生の下級生に対する私的制裁があった。
わが校もご多分にもれなかった。
 全寮制だから、どんな室長とめぐり合わせるかによって、その後の寮生活の命運が右される。
 それは、いつに室長の人間性そのものにかかわっていた。
 ひどい話は、室長の級友が「殴らせろ!」と、室に入ってきて1年生を理由もなく鉄拳で殴るというのだ。
 彼らの室長は、それを制止できず、ただ黙認しているだけ。
 その室の同級生たちは、いつも口内が切れたままで直るひまもなく、血が滲んでいたという。
 「まるで地獄のような毎日だった」と。
 戦後、同窓会で本人たちが口にしたので初めて知ったことだ。
 ぼくの室でも一度、室長に全員ビンタを張られたことがある。
 同室の1年生が上履きで窓から庭に出、そのまま室内に戻ったらしく、床に土足の跡が残っていた。
 室長が全員を詰問したが白状するものがいない。それで連帯責任をとらされることになったわけだ。
 直立不動をさせ、
 「股を開け!」、「目をつぶれ!」、「歯を食いしばれ!」
 その後、ビンタが飛んできた。
 歯をくいしばるほどのビンタでなかったが、室長は軍隊の内務班のまねごとをしたかっただけのようだ。

 
                         
上は日本陸軍の複葉機
左はドイツ空軍の急降下爆撃機『20世紀の歴史(15)第二次世界大戦[上]』(平凡社)

 
 午後4時ごろ、「あっ! 飛行機だ!」  
 叫び声に、全員いっせいに窓際に駆け寄った。 
 “キーン"
 天井を圧するような爆音を残し、ソ連の戦闘機が、あっという間に飛び去った。
 牡丹江市の上空では、2枚翼の赤トンボ(複葉の練習機)さえ見かけなくなって久しい。
 最新鋭の戦闘機のスピードがどんなものか、だれも見当はつかなかいが、その速さに一同驚嘆(きょうたん)した。
「あの金属音は、ドイツ映画で見た『急降下爆撃機』の爆音そっくりだ。あんな速い飛行機がソ連にあるわけがない、きっとドイツで分捕った戦闘機だろうわれわれは、お互いの顔を見ながら、そう言い合った。
当時のソ連軍の主力戦闘機ラー5型、ラー7型は時速650?以上。
 日本陸軍の主力戦闘機は飛燕型で時速590?、疾風型で624?である。
 ソ連機に比べ時速で劣るだけでなく、これらの新鋭機は満洲には配備されていなかった。〈『一九四五年 満洲進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』[徐焔(シユ・イェン)著、朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳](三五館発行)〉より。
(上のソビエト機は『[図解]世界の軍用機史 イラスト・解説=野原 茂』(グリーンアロー出版)

 夕方近くなって、牡丹江市内の第二新市街に住む秀子叔母(父の妹)の家に寄ってみようと思い立った。
 玄関まで出ると、軍用トラックが1台横づけになっている。
 旧知の志田さんが同行の当番兵と一緒に自分の荷物を荷台に積み込んでいるところだった。
 彼は石門子校の1年先輩だった。
 ぼくが在校生代表で送辞を、彼が卒業生代表で答辞を読みあった間柄である。
 それは当然であって、6年生は彼1人、5年生は2人いたが1人は女の子だったからだ。
 星輝に入学いらい、いや、石門子いらい、お互い顔を合わすのは初めてだった。
 寮内で下級生は自分の室を出て歩き回ることを、あまりしなかった。廊下で上級生と会い、思わぬことで叱責を受けたりすることは避けたいからだ。
 憲兵少尉に進級していた彼の父は、石門子からほかの地へ転属になっていたようだ。
 息子のために寮まで、トラックと当番兵を差し向けたのだろう。
 トラックに近づくと、
 「徳広君! 何をぐずぐずしているんだ! 早く避難しないと、ここも危ないぜ!」
 いつになく緊迫した表情で、そう言い残すと、トラックの助手席にあわただしく乗り込んだ。
 彼を乗せたトラックは、何ものかに追われているかのようなスピードで走り去った。
 ぼくは呆然と、それを見送った。
 それが彼を見た最後の姿だった。

〈昼夜ヲ問ワズ、満鮮系不逞徒輩ノ蠢動著シキモノアリ〉

 後日談だが、彼の父はシベリアで10年間の抑留生活を終え、昭和31年暮れに広島県福山市に帰国した。
 そのことを中国地方の新聞が写真入りで大きく取り扱っていた。
 同紙によると、彼らの家族は避難の途中、暴民に襲われ彼と母親、ぼくより1学年下の妹、最下級生だった満州男(ますお)君と、もう1人の弟を含む全員が死亡したとあった。
 妻子と一緒に生活することが出来る日を唯一の励みに、厳しい抑留生活を耐えてきたのに、刑を終えて内地に復員してみると、心の支えであったその妻子はすでにこの世にいない。
 一体これから何に生活の張りを求めていけばよいのか、志田さんの父の悲嘆にくれた談話が載っていた。
 こういっては失礼だが、憲兵少尉の下級将校がソ連に最後まで抑留されるには戦前に重い罪状があったからだろうか。


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