第1部 運命、それぞれの岐路(11)

2006年07月03日 11:25

                       
  講堂に難民の集団

  八月十一日(土曜日)

〈東満交戦地区郷軍ノ牡丹江地区転進並ビニ避難婦女子ノタメ校舎提供。生徒若干名ヲシテ救済援護ニ充ツ〉

 家が拉古(ラコ)の2年生と斉藤、坂本、海林(ハイリン)のぼくとの4人は、きのう一緒に下校したが、不通になった列車を待ち続けたあげく、とうとう牡丹江駅で一夜を過ごしてしまった。
 明け方から駅前広場で泣きわめく迷子を、群衆の中に混じって見ていたがきりがない。
 2年生にうながされて学校に向かった。
 校門に近づくと円明国民学校当時、仲のよかった日高が、玄関から出て来るのにぱったり出会った。
 「これから新京(現長春)方面に疎開することになったので、学校に休学届けを出してきたところだ」
 彼の父の所属する部隊に撤収命令が出たのだという。ぼくは牡丹江が避難するほど危険な状態にあるとは露ほども知らず、休学届けとは少し大げさ過ぎないか、と内心思った。
 避難も一時的なものだろうから、またすぐ会えるという軽い気持ちで、その場を別れた。(彼も内地に無事帰国しているが、60年余経ったいまも会う機会がなく過ぎている)


(牡丹江・円明在満国民学校)

(この2階の窓からガキどもが首を出し、道行くご婦人に、「パーマネントに火がついてみるみるうちにはげ頭、はげた頭に毛が3本、ああ恐ろしや恥ずかしや、パーマネントはやめましょう」と、はやし立てたてた。パーマネントの髪型も知らないで。パーマネントや男の長髪が禁止になったころのことである)
  
 校内は静かだった。生徒の姿はだれ一人見当たらない。
 「授業はどうなっているんだろう?」
 2年生が代表で職員室へ入って行った。
 その間、ぼくらは人影のない1階の廊下を歩き、教室を一つひとつのぞいて回った。
 一番奥にある講堂まで来て、なにげなく中をのぞいてハッとした。
 まったく人の気配を感じさせなかった広い講堂の片隅に、20人近くの人たちが身を寄せ合うようにして座っていた。
 男も女子どもも皆、なにかに脅えたような目つきでこちらを見た。
 だれ一人、口をきこうとしない。
 昨夜の避難列車で牡丹江駅に下車した人たちなのだろうか。
 無蓋貨車でトンネルをくぐり抜けてきたのか、どの顔もすすけ、妙におどおどしている。
 これが日本人かと見まがった。きのうまでの一等国民と自負し、尊大な態度をとっていた邦人たちとはまったく違っていた。
 しかし、この人たちを不審の目で、いつまでも見ているのは気の毒に感じたので、ぼくたち3人は早々に講堂を出た。
 事務室近くの校庭では、事務職員の男が1人黙々と書類の束などを炎のなかにくべていた。夏の日差しのなかで書類のページが炎でめくられていく。
 先端から灰色、赤色、黒色が混じり、めらめらと燃え上がる光景を、ぼくはただぼう然と眺めていた。
 すると、昨夜来の異変続きが頭の中を去来した。おぼろげながら自分の身辺にも事態の変化が忍び寄ろうとしているのでは、と不吉な予感に襲われた。
 だが、そんな不安を否定しようとする意識が、心の奥のどこかで働いていた。
 「きょうは、授業はないそうだ」
 2年生の報告を受けると、ぼくらは、
 「これからどうしよう?」と迷った。
 学校を出て歩いているうちに突然、斉藤が「家まで歩いて帰ろう」と言い出した。
 拉古までは山を一つ越えるとすぐで、以前にも歩いて帰ったことがあるという。拉古組みの2年生も坂本もそれに同調した。
 海林はそれより一駅先だ。ぼくはそこで別れた。
 彼らのその後の消息は、いまもって知らない。


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