第1部 運命、それぞれの岐路(9)

2006年06月26日 15:22

             
  敵愾心に燃える

 〈学校長全校非常招集令下、学徒遊動隊総隊長ノ統率ノ下、第二大隊(星輝中学部隊)血盟式挙行〉

 かねてから有事の際は、「牡丹江学徒遊撃隊」が結成されることになっていたらしい。
 牡丹江には、牡丹江、星輝の2中学校、それに青年学校1校、国民学校(小学校)3校があった。
 編成は、牡丹江中学校が第1大隊、星輝中学校と昭慶(しょうけい)国民学校が第2大隊、青年学校と円明(えんめい)、聖林(せいりん)両国民学校が第3大隊となっていた。


(本校教員と4年生一同。本校正面玄関にて、昭和20年6月1日撮影)

 3個大隊とは、ものものしいが年齢12歳から16、7歳くらいまでの中学生と、10歳以上の国民学校高学年の生徒児童に過ぎない。
 手にしているものは木銃だけ。
 徒手空拳に等しい少年の集団が、どれほどの戦力となるかはなはだ疑問であった。
 わが校の場合、6月に学徒動員令が発令され最上級生である4年生は、機甲班の20名を残し、満州西部にある白城子(ハクジョウシ)の満州航空平台飛行機工場に出はらっていた。
国境近くの開拓地に派遣されていた2、3年生はソ連軍侵攻前夜に帰還していたが、人員数は1年から機甲班の4年生まで総員300名弱、1個中隊並みだった。
 ぼくたち1年生は物資不足で学校の制服を購入できず服装はまちまち。
 チビのぼくなどは半ズボンにゲートルといった格好だった。
 はたから見れば貧相な子どもにしか映らなかっただろう。
 これでも一端(いっぱし)の少年兵気取りで、「牡丹江市民の援護、学園死守の重責完遂に決死敢闘を宣誓」し、ソ連軍に対し“撃ちてし止まむ!”の敵愾(てきがい)心に燃えていた。
われわれ日本人には「大和魂」があるのだ!

  自宅通学の朗報

 〈寮生中自宅又ハ親戚ヨリ通学可能ナル者ニ対シ、帰宅ヲ命ズ〉
理由…時局ノ要請ニヨリ旧男子星輝寮ヲ軍病院(7月末、第5部隊野戦病院)ニ提供、元営林局庁舎ニ転居ノトコロ井戸水ノ湧出量乏シク多人数ノ炊飯著シク困難ナル上、新事態ノ発生ハ更ニ早急ノ方途ヲ必要トセラレタルニヨル

 市内に自宅または親戚のある者、近郊より通学可能な者は即刻帰宅してよいことになった。
 理由はともかく、ぼくにとってこれは飛び上がるほどの“朗報”だった。
 本来なら夏休みで帰省しているころだ。
 4年生の機甲班と、3年生のグライダー滑空訓練生を除き、6月に入ると上級生のほとんどが勤労動員に出動していた。
  また、1期生(4年生)から就学年数が5年制から4年制に短縮された。
 こうした事情や時局柄だろうか、待ちこがれていた夏休みが返上となり、大いに落胆していたところだった。
 4月に入寮以来、ホームシックと慢性的な空腹に悩まされていた。
 朝はおかゆ、昼の弁当は毎日、判を押したように冷凍の魚とひじきの煮付け。
 弁当は左右に振ると中身は3分の2か半分くらいに減る。
 空腹感がホームシックを一層募らせていた。

 ただ、この学校では期末試験の結果が悪いと、夏休みの帰省は不許可となり、その間は寮に残って自習することになっていた。
 そんな場合の秘策を薩摩藩主と同姓のSさんから、ぼくは伝授されていた。
 「理由はなんでもよいから、家から電報を打ってもらうこと」だった。
 彼は昨年、この手を使って帰省したそうだ。
 Sさんは円明校の1級先輩だったが落第していた。
 同じ1年生でも、彼の方が学校の釜の飯を食った数が1年多いから、「さん」付けで呼ばなければならないのである。
 誰が決めたのか、生徒間のしきたりでそうなっていた。
 Sさんは呼び捨を気にすような人ではないが、元同級生たちに見とがめられると呼び出しを食う危険性があった。

 Sさんに、せっかく伝授された宝刀も持ち腐れになっていたが、思いがけない朗報に “帰心矢の如し”である。
 授業が終わると一目散に牡丹江駅に向かい、列車に飛び乗ると二つ目の海林駅から、わが家へと急いだ。


(外蒙古から奉天へ向かうソ連軍 『[写説]満洲』太平洋研究会編 ビジネス社)


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