第1部 運命、それぞれの岐路(8)

2006年06月24日 15:45

                 
  無敵関東軍を信頼

 話が横道にそれたが、再び場面をソ連軍侵攻当日早朝の元営林局の仮の寄宿舎に戻す。
 ぼくたちはベッドに腰を下ろした機甲班の4年生を囲み、その口元からそれ以上の情報が洩れてこないか、すがる気持ちで見つめていた。
  当直の先生に命じられ、単に伝達に来ただけの先輩が最前線の状況を知るはずはないこと分かっていた。
 不安の色を隠せない後輩たちを勇気づける必要を感じたのか、
 「満洲には日本の最精鋭を誇る“無敵関東軍”百万が配置されているのだ。そうたやすくソ連軍なんかにやられるわけがない」
と、力説し始めた。
 「ソ連側が不可侵条約を一方的に破り、不意打ちをかけてきたのだから緒戦は劣勢に立つかもしれない。
 だが、そうあっても必ず戦局を挽回(ばんかい)するに違いない」
 先輩もソ連の軍事力についての知識は皆無であったと思う。
 だが、自分たちの望まない現象は起こらないと信じたくなるものだ。
 われわれも威勢のよい言辞に勇気づけられ、不安も次第に薄らいでいった。
 「おれは機甲班で自動車の運転を習っている。戦車だって自動車と運転は同じだ。牡丹江までソ連軍が攻め込んできたら、おれも戦車に乗って闘わしてくれんかなあ!」
 意識の昂揚した先輩は切歯扼腕(せっしやくわん)、いますぐにでもソ連軍との戦闘に参加したい意気込みを見せた。
 ぼくたちもソ連兵と一戦交えてみたい衝動に駆られ、第一線に出て戦う可能性のあるこの機甲班生を羨望(せんぼう)の目で見つめた。
 話がはずむうちに、
 「無敵関東軍だ、ひとたまりもなくソ連軍をやっつけてしまうから、そんな機会を望むのはむり理だろう」
 つごうのよい結論に落ち着いた。皆、口々にそれを残念がった。
 国境から来ている連中の心のうちを忖度(そんたく)できないが、彼らは軟弱な男と思われたくないので虚勢を張っていたかもしれない。
 ともかく牡丹江は内地と違って、これまで空襲の経験もなく、空から降ってくる爆弾や焼夷弾の恐ろしさにあっていない。
(上の写真は『昭和2万日の全記録(第6巻)太平洋戦争』講談社)

 戦争は遠く離れた想像の世界でしかなかった。
 われわれが自己陶酔に陥っていたころ、当日朝の牡丹江のラジオ放送は、
 「ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、不法にも全国境から我が国に侵入を開始しました。
 しかし我には、関東軍の精鋭百万あり、全軍の志気は極めて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります……」
これでは、われわれの勝手な情勢判断と五十歩百歩である。

  張子の虎だった関東軍
 そのとき関東軍の精鋭は南方や,本土決戦のため内地に転用され、武器、弾薬も底をつき、もはや「張子の虎」だった。
 ソ連軍を迎え撃つ関東軍は兵員こそ70万人に達していたが、現地満洲での兵力調達で5月に約20万人の在留邦人を、8月に入るとさらに10万を招集。
 これら根こそぎ動員による招集兵は、軍事訓練を受けることもなく、戦車、砲兵、航空部隊の重装備は皆無に近く、小銃すら充分に行きわたらない未教育の兵の集団に過ぎなかった。
 ぼくらの身近なところにも変化はあったのだが、見過ごしていた。
 4月に入学した1年生は120名いる。そのうち14人が5月から6月にかけ岩国中、丸亀中、唐津中、飯田中など内地の学校に転校。なかでも5月31日には8名が一度に去っている。関東軍の大幅な内地転出があったのだ。 
(上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

 部隊の移動が外部に洩れるのを防ぐため、ごく一部の関係者以外には内密にしていたのだろうか。満州の学校で転校は日常茶飯事だったし、入学間もなかったから同級生同士でも、なじみが浅かったせいかもしれない。
 8月9日午前零時を期して進撃したソ連赤軍は、ワシレフスキー元帥率いる極東方面軍で、虎頭(コトウ)、綏芬河(スイフンガ)、東寧(トウネイ)、老虎山(ロウコザン)、琿春(コンシュン)の東部国境線一帯に巨大なスターリン型重戦車を先頭に怒涛の進撃を続け、情勢は刻々と悪化していたのである。


(左はカチューシャ・ロケット砲 『図解・ソ連戦車軍団』 並木書房、上はスターリン型戦車 『世界の戦車』 菊地晟著・平凡社カラー新書)


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