第1章 満州国崩壊の序曲(3)

2005年05月13日 15:12

   張子の虎だった関東軍

 ともかく牡丹江は内地と違って、これまで空襲の経験もなく、空から降り注いでくる爆弾や焼夷弾の恐ろしさも知らない。
 満州に住むぼくたちにとって、戦争は遠く離れた想像の世界でしかなかった。
東満州  さて、われわれが自己陶酔に陥っていたころ、当日朝の牡丹江のラジオ放送は、
 「ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、不法にも全国境から我が国に侵入を開始しました。
しかし我には、関東軍の精鋭百万あり、全軍の志気は極めて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります……」
 これでは、われわれの勝手な情勢判断と五十歩百歩である。

 ところが真相は、
 関東軍の精鋭は南方や,本土決戦のため内地に転用され、武器、弾薬も底をつき、もはや「張子の虎」だった。
 ソ連軍を迎え撃つ関東軍は兵員こそ70万人に達していたが、現地満洲での兵力調達で5月に約20万人の在留邦人を、8月に入るとさらに10万人を招集。
 これら根こそぎ動員による招集兵は、軍事訓練を受けることもなく、戦車、砲兵、航空部隊の重装備は皆無に近く、小銃すら充分に行きわたらない未教育の兵の集団に過ぎなかった。

 『関東軍作戦参謀 草地貞吾回想録』(芙蓉書房出版)の中で、筆者の草地大佐は、
 関東軍としては「兵力転用企図秘匿要領」などを作製、戦力の抽出転用を極力秘匿し、張り子の虎を装った。(略)
 関東軍はすでに昔日の精強関東軍ではなかった。
 しかし、それでも70万人あった。最後のハラは70万玉砕であった。

 また、関東軍部隊の内地転用に関して、
 数万にのぼる兵員が移動しているのを目撃したという人は少ない。
 軍はすべてこれを夜間に実施したからだ。
 敵性人につかまれたとしても、その全貌を把握することはできなかったであろう。
 これに対し、『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(全国捕虜抑留者協会長 斎藤六郎著)で、著者の斎藤氏は、
 南方戦線は敗退を重ね、兵力の消耗が甚だしかった。
 その補充兵力として昭和19年初頭から、何十万の精鋭部隊を関東軍から引き抜き転進させていた。
 武装した軍隊の移動は人眼から隠し通せるものではない。
 しかも適性中国人の衆人環視のもとにおいておや、と手厳しい。

  ぼくらの学校でもその影響で、内地の学校に転校した生徒が多数いる。
 本校の学籍簿によると、4月に入学した1年生は120名、そのうち14人が5月から6月にかけ岩国中、丸亀中、唐津中、飯田中などに転校している。
 関東軍の大幅な内地転出があったことを、これが裏付けている。
 部隊の移動が外部に洩れるのを防ぐため、ごく一部の関係者以外には内密にしていたのだろうか。
 戦後、当時の学籍簿のコピーを見て初めて、気付いたのである。
 満州の学校で転校は日常茶飯事だった。
 それに入学間もなかったから同級生同士でも、なじみが浅かったせいかもしれない。
 余談だが、内地転校組の中には、後に『機雷』で直木賞(1981年下期)を受賞した故光岡明氏も含まれている。
 彼が在籍した期間は、わずか1週間だったそうだ。
南方地図 

 (『20世紀の歴史 [15巻] 2次世界大戦[上]』平凡社)

 



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