第2章 逃避行そして難民生活へ(4)

2005年11月12日 16:23

  武装解除から抑留へ、ある関東軍兵士の心象風景
 ソ連軍から武装解除をうけたのは、ついきのうのことであった。横道河子オウドウカシ という山あいの町で、ソ連の戦車隊に追いつかれたわたしたちは、白旗を掲げた翌日の朝、すぐ武装を解除された。
 武装解除といっても、別に厳重な監視があったわけではなかった。
 わたしたちはめいめいガヤガヤいいながら小銃や帯剣や小銃弾や手榴弾を道路わきの空地に散乱させた。山あいの町の降伏風景はまるで夢のように穏やかで、静かなものであった。
 横道河子を出発するとき、ただ西へ引き返えせという命令が出ただけであった。
 「牡丹江まで引き返すんだってさ。それから汽車に乗せて帰してくれるんだろう」
 捕虜と白旗みんなはそんなことをいい合っていた。 
 その日の午後、わたしたちは海林という駅に近い道路に面したある輜重隊しちょうたいの兵舎に入って行った。 ほかの部隊もいくつか、わたしたちより先に到着しており、二千名ばかりの兵隊が倒れるようになって、営庭に転がっていた。みんなこの十日間をわたしたちと同じようにソ連の戦車隊に追いまくられ、山へ逃げ込んだ部隊ばかりに違いない。
 今、わたしたちの前に投げかけられている問題は、わたしたちの運命をどう切り拓いて行くかということではなく、運命がどう流れて行くかということに対する不安であった。
 私(上等兵)はできるだけこうした不安を考えまいとした。そんな話を持ち出されるとき、わざと不安を噛み殺し、つとめて明るい見透しについて話すようにした。
(写真は『満洲の記録 満映フィルムに映された満洲』集英社)
 「せいぜいもう一月だよ。帰してくれるよ」
 私はそう主張せずにいられなかった。ポツダム宣言にそういうことが明記されていること、ソ連には人的資源が豊富だから、われわれの労働力など必要としないこと、ソ連の態度が必ず人道的であること――それが私の主張の根拠だった。
 私のそうした考えを正面から反駁はんばくする兵隊は一人もいなかった。だが、私の言葉をそのまま信じきる兵隊もいなかった。
 ただ降伏申入れから終戦までの情報に私が一番通じていたということや、わたしたちの間では私がやや物知りであるという点だけが、幾分私の言葉をみんなに納得させる上に力を持っていたようであった。だから、
 「使役、使役、二、三年はシベリアで使役さ」
 とこともなげに方言する兵隊でも、その後で必ずこうつけ加えることを忘れなかった。
 「……と思ってりゃ腹は立たないさ」
 「帰すとなれば、釜山か、清津かね」
 「朝鮮は危ないからね」
 「大連かな?」
 「ウラジオだよ。きっと」
 「そうだ、それが一番近いよ」
 「同じ帰るなら、ソ連を通った方がいいね」
 「話の種になるよ」
 話の種という言葉を、私は眼をつむって噛みしめて見る。
 この3年間の兵隊生活、戦争、敗戦そしてこの現在の境遇――すべてが内地へ帰ってから、話の種とならないものはなかった。そういう時がもてるであろうか? もてるに違いない。いや、是が非でももたねばならない。
 眼を閉じ眼を開けて見ると、もはやそこが内地であることを、そういう奇跡を必死になって求めている。
(以上、『秘録大東亜戦史 満洲篇』、昭和29年6月発行、産業経済ロンドン支局長北川正夫著『シベリア行』より)
満鉄路線図
『[満洲帝国]北辺に消えた〝王道楽土〟の全貌』(学究研究所)

  関東軍兵士ソ連抑留の疑惑
 日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、東南アジアの日本兵士は早々と帰還したのになぜソ連に降伏した関東軍だけが取り残されたのか。
野原で  『シベリアの挽歌 全抑協会長の手記』(全国捕虜抑留者協会長斎藤六郎著)よると――日本軍の連合軍に対する降伏は無条件降伏であったが、その他の付随的問題については数ヶ条の条件を提示していた。それを定めたのが「ポツダム」宣言第九項である。
 「日本国軍隊は完全に武装解除されたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」
 米、英、支(中国)等の占領地では、おおむねこの線で早期送還に着手した。それなのにソ連一国のみ、これに反し長期に日本人兵士を抑留し労働を強制するに至った。
 ソ連もポツダム宣言の署名国でありながら、他の連合国とことなる挙に出た背景、法的根拠は何か。当時の国際法は捕虜を賠償として取り扱うことは禁じており、人道的に遇すべきと規定していた。
 日本人将兵の抑留は、事実上ソ連の賠償先取りである。それを明確に証明しているのが、昭和20年8月23日付の「健康な捕虜50万を連行せよ」のスターリン命令である。

  [日本人捕虜に関するスターリン命令書] 暗号電報№2234

   1945年8月24日12時25分、モスクワ発
   1945年8月24日19時05分、赤軍参謀本部第8局受理

 1945年8月23日付国防国家委員会決定№9898の第2条を以下伝達する:
  方面軍軍事ソビエトは、ソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者総局の代表者達とともに、以下の措置を義務として実行すること:
  ア)極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本人―日本軍軍事捕虜を、約500,000人選抜すること;
   イ)軍事捕虜をソ連邦に移送する前に、1,000人づつから成る建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍の工兵部隊の若い将校、下士官の軍事捕虜を、指揮官に命じること;(以下略) 
 スターリンは、一度は日本人将兵の帰国に同意を与えていた。それは自らも参加したポツダム宣言第九項にあったからである。
 だが、対日参戦の見返りとして北海道の占領がアメリカの反対で潰れ、これでは国民が納得しないと日本人捕虜のシベリア抑留に方針を転じつつあった。
 加えて関東軍の労務提供の動き(詳しくは『シベリアの挽歌』原文参照のこと)は、スターリンにとって誠に都合のよいことだった。日本軍の方から「お使い下さい」と申し出てきたのだから何の遠慮も不要とばかり、日本人兵士らは酷寒の大地で飢えになやまされながら労働を強いられることになった。

総司令部




コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://saro109.jp/tb.php/26-a79afae9
    この記事へのトラックバック


    最新記事