第2章 逃避行そして難民生活へ(2) 

2005年10月22日 14:50

  ある開拓団の悲劇
 しばらくすると、国境近くのある開拓団の悲惨な最期が伝わってきた。
 話はこうである。
 その開拓団は、避難の途中でソ連軍の戦車に追いつかれ、絶体絶命の状況に陥った。
 団員は全員、集団自決を決意する。自決するにあたって幼い子どもたちをどうやって死なせるかが問題となった。
 開拓団の子ども  そこで考えついた手段が、まず携帯していた幔幕を野天に張る。
鬼ごっこになぞらえて目隠しした子どもを、その中へ1人ずつ呼び込む。
 剣道の腕の立つ人が、その子どもの首をねていくという方法だった。
 日ごろ子どもたちと仲のよかったおじさんが、幔幕の中から、
 「鬼さんこちら、手のなる方へ」
 母親は目隠しした子どもに、「おじさんが、あっちで呼んでるよ」
 涙をこらえ、突き放すようにして幔幕の中へ追いやる。
 幼い子どもは無邪気で、声につられて中へ入っていく。
 日本刀を振りかざして待ち構えていた剣道の有段者が、その首を一振りで刎ねていったというのだ。
 幼い子どもはそれでだませたが、国民学校も上級の児童になると、敏感に感じ取っていたらしい。
 「おじさんたちは、ぼくら子どもを殺して、これからの日本はどうなると思うのか!」と言い残し、大人をにらみつけながら、幔幕の中に入って行った男児がいたという。
 話がそこまでくると、避難列車内の大人たちは一様に、「さすが日本人の子どもだ!」健気な男児をほめたたえた。
 中学生でありながら、ぼくにはそのような堅固な志操を持ち合わせていない。その男の子に畏敬の念を抱くとともに、言い知れぬ劣等感にさいなまれ、貨車の隅っこでただ縮こまっていた。
(上の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋戦争研究会編・新人物往来社)

  乞食のようなソ連兵
 列車はハルピンの一つ手前の駅、賓江ヒンコウでソ連軍に追いつかれた。
 初めて見るソ連兵は腰紐(ひも)に空き缶をぶら下げ、黒光りするルパシカを着て、ぼろ布を巻きつけたような靴をはいていた。
 ある意味では、日本兵に比べ戦闘しやすいよう軽装備にしているともいえる。
 中には見た目で16、7歳の少年兵もいた。ルパシカの黒光りは手鼻をかんだ後、汚れた指を服になすりつけたり、袖(そで)で鼻を拭ったりするからだ。
 われわれの列車に乗っていた日本兵は、一度も戦闘をしていないので装備や軍装は新品そのものである。

白旗

 ――『関東軍と極東ソ連軍』(元参謀本部ロシア課長 林三郎著)によると、ソ連の対日参戦から日本の終戦決定の7日間、関東軍の部隊でソ連軍と交戦したのは、東正面では虎頭コトウ国境守備隊、東寧トウネイ支隊、第112、第124、第126、第128、第135の5個師団。うち第124、第126、第135の3個師団は大きな損害を被った。
 ところで関東軍の兵力は24個師団、9個混成旅団を基幹としていたから、ソ連軍と交戦した部隊はその一部にすぎなかった。言い換えると、8月15日現在、関東軍の主力はいまだソ連軍とは交戦しておらず、したがって無傷のままで残っていたのである。
 ――昭和20年8月9日未明、虎頭要塞ではウスリー河を渡って進撃して来るソ連軍に守備隊1400名と、近在から避難した在留邦人約300名が要塞に立てこもって激しい抗戦を展開した。(略)十数倍ものソ連軍との砲撃戦の末に地下陣地からゲリラ戦で立ち向かった。8月15日に傍受された終戦の玉音放送は〝謀略〟と判断され、(略)18日にソ連軍が派遣した日本人軍使を斬殺した守備隊には関東軍の持久作線にある〝玉砕〟しか道がなかった。(略)26日、歩兵第2中隊の切り込みを最後に組織的な抵抗は終わりを告げた。奇跡的に脱出して日本へ生還したのはわずか53名。要塞内に避難した民間人は10人余の生還が確認されたのみである。

守備隊
(上の文と写真は『虎頭国境守備隊の最期』日本植民地史[2]満州、毎日新聞社)

   ぼくたちは列車から降ろされ、ハルピン飛行場までバスで移動させられた。
バスが通る横を、兵士たちは雨でぬかるんだ10里(約40㌔)の道のりを行軍した。
夕暮れ近くなると泥沼に抜かり、あえぐように歩を進める。その兵隊たちの前や後に馬を走らせ、馬上から叱咤激励しったげきれいする将校の姿があった。 呑龍
 飛行場に着くと暗闇になっていた。弟の晋を帯で背負って飛行場のエプロンを歩いていると、少年雑誌のグラビアなどでなじみの日本陸軍の爆撃機 呑竜どんりゅうの機影が他の飛行機と並んで見えた。
 実物の爆撃機を敗戦後にお目にかかれるとは、思いもよらなかった。
 講堂のような大広間に全員収容された。
海林航空隊の部隊長が全員の前に登場し、天皇陛下のご英断で〝ポツダム宣言〟を受託し、日本は連合国軍に対し「無条件降伏」したことを公式に伝えた。

(100式重爆撃機キー49・呑龍 『太平洋戦争 日本航空戦記』文芸春秋 臨時増刊)
 さらに「天皇陛下の勅語に従って、今後は〝忍び難きを忍んで〟生きていかねばならないと訓辞した。 原爆記事
 初めてお目にかかる大佐の襟章を着けた部隊長は、短躯(たんく)で小ぶとり、そして出っ張った腹を幅広い帯革で支えていた。
 部隊長が壇上を去ると、京都帝大出身という若い男が大きな黒板を前に、
 「広島と長崎に落とされた新型爆弾は〝原子爆弾〟と呼ばれるもので、わが国でも仁科芳雄博士を中心に研究がすすめられていた」と話し始めた。
 〝中性子〟とか〝陽子〟といった用語を交えながら原子爆弾の原理を、黒板で説明してくれたが、聞いている側はどれほど理解できたか分からない。
 ぼくは弟らと一緒に、配られたばかりの航空食用のチューブ入りチョコレートや、マーブルよりやや大き目の糖衣で包んだ甘い栄養食の方に気をとられていた。


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