第1章 満州国崩壊の序曲(20)

2005年07月27日 20:06

  民間人の避難は1日後に
 避難列車は海林ハイリン駅を午後3時出発の予定だったので、午前中は時間を持て余していた。
 軍事郵便 荷造りした行李は兵隊さんたちが駅へ運んでくれたから、ぼくにはこれといってすることは何もない。退屈しのぎに海林の街へ出かけてみた。
 街のにぎわいや街並みなどの記憶はないが、学校から藤田進主演の「姿三四郎」と「同(続編)」、それに「轟沈」などの映画を観に行ったことがあるから、ちょっとした娯楽施設はあったかもしれない。
 あてもなく漠然と歩いていると、海林国民学校で同級だった生玉いくたま君(あだ名は「なま卵」)が、家の前で落ち着かない様子で立っていた。
 彼は同校の高等科1年に進んでいたと思うが、顔を合わせるのは3月の卒業以来だった。
 「君はいつ避難するの?」と尋ねると、「民間の日本人は明日(14日)」だという。
 彼の家は、満人の住居が立ち並んでいる中の1軒だった。ほかにも日本人が住んでいる家があったかもしれないが、そこまで気は回らなかった。
 それはともかく、日本の軍人軍属が避難してしまうと、彼ら一家は満人の集落の中に取り残された格好になる。不安の色を隠せないのは当然で、切実な問題でもあっただろう。
 一足先に避難するぼくは、気の毒に思ったが、ほかに言葉が浮かばない。ただ「さよなら」と別れた。
 海林校の児童数は30~40人ほどで、同級生は男女あわせて5人ほどいた。
 その中で同じ中学校に入ったKは、醤油醸造会社の子どもだった。Kは戦後、東京で開かれた中学校の同窓会に一度顔を出している。
 生玉君たち民間人も、無事内地に引き揚げることができただろうか。

  不気味な見物人たち
 午後に入ってから避難列車に乗り込んだものの、定刻の3時になっても海林駅を一向に発車する気配がない。
 何両編成だったか覚えていないが、長い列車は客車2両のほかはすべて貨物車だった。列車はハルピン経由で新京に向かうのだと聞いた。
 一部の殿しんがり部隊を残し、部隊長以下、梅林航空隊に所属する軍人軍属とその家族全員が乗っていた。
 列車には、部隊の兵士全員を1年間まかなうだけの食糧が積み込まれているとのことだった。
 客車は部隊長ら将校が1両、その家族がもう1両に乗り込んでいた。
 軍事郵便所は軍属の家族と同じ扱いで、テントでおおった無蓋車が割り当てられた。
有蓋車の屋根の上には、丸めたセンベイ布団とデコボコの鍋や、やかんなど世帯道具一式を背負った貧しい身なりの満人たちが勝手に上り、家族単位で陣取っていた。
 連結器の間には、手ぶらで身軽そのものといった単身の満人が、ちゃっかり座りこんでいた。
 日本人の駅員や軍の関係者は、それを見とがめては追い払うが、その一瞬だけ。しぶしぶ列車を離れても、どこで様子をうかがっているのか、しばらく時間がたつと、また元の場所に戻っている。ハエを追い払うに等しい。
 満人 そんなことを繰り返しているうちに、追い立てる側は根負けしたのか、にが笑い混じりであきらめ顔になっていた。駅員や兵士たちは、退屈しのぎにやっている風にさえ見えてきた。
 一方、戦火を避けて逃げようとする満人とは対照的に、物見高い満人たちがホームの鉄条網の外に群がっていた。
 両腕を胸の前に組み、うすきみ悪い笑みを浮かべ、悠然と日本人の避難の様子を見物している。彼らは一様に身なりもよく、裕福そうにみえた。
 日ごろ民族的優越感から尊大にふるまっていた日本人の浮き足立った様を、せせら笑っているかのようだった。
 彼らの気味悪い笑みの底には、日本人が去ったあと、残された家財道具などを略奪するニュアンスもあったのだろう。
 われわれは知らなかったが、上海では8月11日に〝日本の敗戦〟が市民に知れ渡っている。(『堀田善衛 上海日記』集英社)
 易姓革命5千年の歴史をもつ民族だ。古来からの遺伝子がもつ情報網は広く、その伝達能力も驚くほど速い。そして情報の確度も極めて高い。
 彼らが泰然と構えていたのは、自分たちのいるところは戦火に巻き込まれる心配がない、と確信を持っていたからであろう。
 それに引き換え、貧しい満人は貧相な家財道具を背負って逃げようとしている。
 この民族にも、貧富の差による情報の断層があったのかもしれない。
(上の写真は『満州昭和十五年 桑原甲子雄写真集、見物人 吉林で』晶文社)

   さらばハイリンよ
 夕方、日が沈みかけるころになって、ようやく列車は動き出した。
 軍事郵便ぼくたちの乗ったテントの無蓋貨車には、20歳前後の若い女子軍属(軍の女子事務員や看護婦など)5、6人が一緒に乗っていた。
 女子軍属は男子の制服同様、草色がかった上着とズボンで、頭に戦闘帽だった。
 列車が動き出すと、彼女たちはまるで修学旅行気分で、はしゃぎだした。
 そのころ流行の「ラバウル小唄」の〝ラバウル〟を〝ハイリン〟に置き換え
   ♪さらば ハイリンよ また来るまでは しばし別れの涙がにじむ
 テントの前方に集まり、流れ去る外の景色に向かって合唱を始めた。
 なんとなく哀調を帯びたメロディーなのだが、彼女らの歌声は明るく、悲壮感どころか感傷のかけらも感じられなかった。
 歌詞のとおり、ほかの人たちの胸中も〝しばしの別れ〟で、〝また来るまで〟の思いではなかったろうか。


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