第1章 満州国崩壊の序曲(19)

2005年07月25日 15:06

 のんびりしていた海林部隊の避難
 秀子叔母にうながされ海林ハイリン駅で窓から下車し、帰宅してみると、駅員の言ったとおり海林軍事郵便所(軍郵)関係は、まだ避難していなかった。
 母(35歳)によると、軍郵関係者は海林航空部隊と同じ避難列車で明日(13日)の午後3時に出発することになっていた。
 牡丹江では、すでに民間人のほとんどが避難列車で新京方面に向かっているというのに、海林は至極のんびりしているように思えた。
 父(38歳)はソ連侵攻前に朝鮮の京城(現ソウル)へ出かけたままだった。
 祖父が朝鮮鉄道に勤めていた関係で、祖母や父の弟妹たちは京城に住んでいる。そこへ33歳になる弟の清叔父に招集令状がきた。そのため叔父の妻子や同居していた祖母たち一族郎党を満州に連れてくる予定だったらしい。 B29
 満州は食糧事情や生活物資の面で内地や朝鮮ほど困窮していない。特に軍関係者は満州在住の民間人に比べても恵まれていた。
 内地ではあちこちでB29の爆撃を受けるようになり、食料事情も日に日に悪化する。こうした諸般の情勢から、内地の家族を満州へ呼び寄せる人はあっても、満州から内地へ帰ろうとする人は極めて少なかったという。
 中学校の同級生の中にも空襲の激しい東京から、4月早々に転校してきた生徒Oがいる。
 東満国境の守備隊長で大佐だった彼の父は〝死ぬ時は家族一緒に死のう〟と覚悟を決め家族を満州に呼び寄せた。
 ところが、東寧トウネイ近くの将校官舎に転居して来たばかりに、8月9日のソ連軍侵攻で彼の母と姉は消息不明のまま今日に至っている。
 このような事例は、少なくないようだ。
 関東軍の中枢部にいた高級将校ですら、同じような誤った判断を犯している。
 元関東軍報道部長だった長谷川宇一大佐は、「栄光消ゆ」(『秘録大東亜戦史(満洲篇)』富士書苑)の中で、次のような述懐をしている。
 ソ軍の進駐が必至であると断定し確信していたわけではない。心中ひそかに、その進駐を望まぬところから、少なくともこの冬を持ち越すのではあるまいかという希望的観測も手伝ったわけである。(中略)関東軍作戦課が命じた国内防衛の諸施設の完了期は、最初は10月となっていたと記憶している 。こういう具合だったので、私はあの終戦の(昭和20年)4月に、東京に残しておいた母を、新京によんだのである。
 母は敗戦後引揚げの途中、平壌で死んでしまったが、母を殺すに至った事の不幸の罪は免れない。
(B29猛爆の写真は『昭和2万日の全記録<第6巻>太平洋戦争』講談社)

  臆病風に吹かれながらも客観視している母
 一家族あたり柳行李やなぎごうり2個まで列車に積むことができるというので、ぼくも母の荷造りを手伝っていると、国民学校1年の勝三かつみすすむ(1年5カ月)、おさむ(10カ月)の弟たち3人も、ただならぬ気配を感じとったのか、おとなしく神妙な顔で見つめていた。 こうり
  一通り荷造りを終えた後、何気なく本棚の方に目をやると石門子セキモンシ国民学校時代の日記帳がポツンとのっていた。
 昨年10月までいた同校で、毎朝、先生に提出していた日記帳である。
 東満国境の学童数わずか十数人の小規模校だったこともあり、校長や担任の三浦兵長ともども家族的な雰囲気に包まれた学校だった。
 特に三浦先生は、毎日の日記にコメントを書き添えてくれ、中学校受験に向けての勉強にも力を入れてくれた恩師である。
 そういう思い出が詰まった日記帳だから、行李の中に入れて持っていこうかと一瞬まよった。が、いずれまたこの家に戻ってくることになるだろうから、と思いとどまった。
 この期に及んでも、ぼくの頭の片隅では、避難は〝一時的〟なものという思いが抜けきれないでいた。
 それにしても、石門子から海林への父の転勤が、あと半年以上遅れていたら、わが家も同級生Oの家族と同じ運命をたどっていたかもしれない。
自爆 海林飛行場の施設を爆破しているのか、轟音が断続的にとどいて来た。
 夜が更けてくると、母はソ連軍の砲弾が間近に迫ってくるような錯覚にとらわれたらしい。
 軍郵のほかの家族(といっても婦人2人と幼児1人)を誘い合わせ、大勢住んでいる陸軍官舎で夜を明かすことに決めた。
 陸軍官舎は、軍郵より駅からはるかに離れている。明日は避難列車に乗るのだから、わざわざ駅から遠ざかるのはどうかと、母の気持ちが理解できなかった。
 ともかく人が大勢いると心強く、不安も和らぐということなのだろう。
 その途次も飛行場の方から爆破音が間歇的に耳を襲った。
 年子の弟を、母とぼくは1人ずつ黒い帯で背負っていた。
 深刻な顔つきで横を歩いていた母が、「いまの自分たちと同じような場面を、前にニュース映画で見たことがある」と口にした。
 ヨーロッパ戦線の緒戦で、ドイツ軍がフランスに猛攻撃を下していたころのニュースフィルムだろうか。
 母の貧しい想像力の中で、いまの自分たちが、ドイツ空軍の爆撃や砲弾に追われ逃げまどうフランスの民衆と重なり合ったのだろう。
 臆病風に吹かれて陸軍官舎へ向かう母が、自分たちの現状をどこか客観的に眺めている――ぼくは不思議な思いで母を見た。



コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://saro109.jp/tb.php/21-e545cf7a
    この記事へのトラックバック


    最新記事