第1章 満州国崩壊の序曲(2)

2005年05月09日 15:22

  日ソ危機、甘かった現状認識

 それにしても、うかつと言うほかなかった。
 寮生は新聞やラジオに接することがない。
 日々の戦局は、朝礼で校長の訓示で知る程度。
 この期に及ぶまで日ソ危機を1度も聞かされていなかった。
 われわれが、そのころ意識していた敵国は、もっぱらアメリカ一辺倒であった。
 昭和20年に入ると、3月に硫黄島、6月には沖縄と玉砕が相次ぎ、いよいよ米軍との本土決戦が焦眉しょうびの急となっていた。
朝日 満州と国境を接する極東ソ連軍の動静には、まったく無頓着だった。
 だから、極東ソ連軍の兵力や配置、装備などについての情報は皆無にひとしい。
 牡丹江市からソ連との国境まで最短距離で150㌔㍍、飛行機なら20分とかからないという事実すら認識していなかったのだ。
 4年生の周りに集まったぼくらは、国境付近の戦況について、その口元からもっと詳しい情報がも れてこないか、すがる気持ちで見つめていた。
 当直の先生に伝達を命じられただけの上級生に、それを求めるのはどだい無理な話である。
 だが、不安の色を隠せない1年生たち勇気づける必要を感じたのか、
 「満州には日本軍の精鋭を誇る〝無敵関東軍〟百万人が配置されているんだ! そうたやすくソ連軍なんかにやられるわけがないだろう」
 「ソ連側が一方的に不可侵条約を破り、不意打ちをかけてきたから緒戦は劣勢に立つかもしれんが、必ず戦局はばん回するさ」
 なんの根拠も裏付けもない希望的観測に過ぎないはずだが、その威勢のよい言葉に1年生たちは次第に勇気づけられ、不安もしだいに薄らいでいった。
 「おれは機甲班で自動車の運転を習っているから、戦車だって運転できるはずだ。おれも戦車で闘わしてくれんかなあ……」
 機甲班員(自動車運転教習班)で学校に残っていたこの4年生は、自分の言葉に陶酔し士気が高ぶってきたようだった。
 「だが、無敵関東軍だ、ひとたまりもなくソ連軍をやっつけてしまうから、そんな機会はこないだろうなあ」
 残念そうな口ぶりで、そう言った。
 このころ関東軍の精鋭部隊は南方のフィリピン方面や、本土決戦に備えて日本に転出し、張り子の虎になっていたが、そんなことを知らないぼくたちは、無敵関東軍に絶対の信頼を寄せていた。
 室内の空気は、いつのまにか関東軍の精鋭部隊が、いまごろはソ連軍を満州から撃退しているだろうと、つごうよい幻想に浸っていった。
 とは言え、国境の生徒たちの心中はどうだったろうか。
 不安を口にするものはいしなくなったが、彼らの心境はわからない。
 
 30年後、初めての同窓会が大阪で開かれた。その時、国境の生徒の多くが両親弟妹らを失い、一家全滅、天涯孤独になったものもいると知った。例年通り、夏休みで国境の家に帰省していたら彼らの運命も……。

 父親がぼくの父と同じ軍事郵便所勤務だった佐々木も、両親と妹3人の家族全員を失い天涯孤独になった一人である。
 彼は、ぼくに次のようなことを語ってくれた。
 父が国境近くの滴道(テキドウ軍事郵便所長だった彼らの家族は、同じ官舎の他の家族とともに首尾よく脱出できた。 
 だが、内地への引き揚げが始まる寸前に、避難先の吉林で下の妹2人、瀋陽で両親と上の妹が相次いで死亡。 死因は飢えからの栄養失調らしい。
 戦後、何年かのち彼の家族と一緒に避難していたという人から手紙をもらって知ったという。
 彼は若いうちに墓を建立し、納骨代わりに満州で撮った一家の写真を納めてあるそうだ。
 その彼は家族運が薄いのか、結婚後も子宝に恵まれず夫婦2人暮らしだ。

4年生

(本校教員と4年生一同。学校正面玄関前にて。昭和20年6月1日撮影)

 

 







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