第1章 満州国崩壊の序曲(16)

2005年07月10日 17:06

 間の抜けた「警戒警報」

 昼ごろになると、市長から「邦人は婦女子にかぎり隣組単位で避難するよう」勧告があった、と叔父が連絡に戻って来た。
 新京方面へ避難することになるらしいので大切な家財道具は防空壕の中に隠して置くよう言い残し、再び出かけて行った。
 当時はまだ、誰もが「戦いが終わるまでの一時的避難」とった軽い気持ちしか持ち合わせていなかった。
 それでも避難命令が下されると、官舎全体が落ち着きを失い始めた。
 夫を送り出した主婦たちは不安で家の中にジッとして居られなくなったらしく、家の前に集まり、これからどうなるのか、あれこれ話し合っていた。
円明通り 遠くから爆弾の破裂音とともにソ連機の爆音が近づいてきた。
 空襲警報の予告はなかった。
 表にいた叔母たちが、大あわてで防空壕に逃げ込んでいるようすが家の中からうかがえた。
 家の中にいたぼくは、わざわざ防空壕まで避難するのが面倒でその気になれなかった。
 どこかで爆弾が炸裂すると、窓ガラスがビリビリと振動した。
 ぼくはその振動に、少々おびえながらも関東軍の防空体制を信じていた。
 ソ連機が飛び去ってしばらくすると、かけっぱなしだったラジオが突然、
 「牡丹江方面空襲警報発令!」
 と報じた。
 おや? またソ連機が来襲してきたのか。
 それともソ連機のスピードがあまりにも速かったので警報が遅れたのか、などと考えていると、
 今度は「空襲警報解除」を告げた。
 後手後手のラジオ報道を聞いていると、いままで信頼していたわが方の防空体制が急に不安になってきた。
 次に敵機が襲来したら防空壕に飛び込もうと決めた。
 実際には前線との通信が途絶し、ソ連軍の戦闘機は国境を飛び立つと牡丹江まで20分足らずで到達できる。
 空襲警報など出す余裕もなかったのが本当のことらしい。

 車窓から海林駅下車

 秀子叔母(当時25歳)たちと一緒に牡丹江駅で待機している避難列車に乗った。
 割り当てられたのは客車だった。
 2歳の長男を抱いた叔母とぼく、その向かい側の座席には年配の奥さんと、新婚ホヤホヤという女の人が座っていた。
 この新婦さんの夫は特務機関員だそうで、「あの人が牡丹江防衛に残されたまま別れていくのが悲しい」と、目頭をハンカチで押さえすすり泣いていた。
 横に座っていた奥さんと叔母が、「ほんの少しの間よ、またすぐ牡丹江へ戻って来るんだから」、としきりに慰めていた。
 避難は一時的のものという考えは、まだ誰にも抜けきらなかった。
 列車はなかなか発車しない。
 車窓からぼんやり外の景色を眺めているうちに、「牡丹江防衛のために残って戦うんだ!」と、意気込んでいた同級生たちのことが思い浮かんだ。 奉天 いま、この避難列車iから降りて寮に戻り、皆と一緒にソ連軍と戦ってみたいという衝動にかられた。
 だが、それを口にすれば叔母に「とんでもない!」と、たしなめられるのは明らかだ。自分の頭の中だけにとどめておいた。
 列車内は、いつしか通路もすし詰めの状態になってきた。
 夕刻近くなって、やっと列車は駅を出た。
 間もなくすると列車は海林駅に停まった。
 叔母はホームにいた駅員に、海林の日本人の避難状況を尋ねた。
 「海林の日本人の避難は明日からです」
 父の勤め先の軍事郵便所の人たちも、まだ避難していないことが分かった。
 叔母にうながされ、ぼくは車窓から駅員の手を借りてホームへ飛び降り、肩にして来た雑のうと防毒マスクの入ったズックの鞄を受け取った。
 「なぜ、さーちゃん(ぼくのこと)を海林なんかで降ろしたんだ!」
 後日、叔母は新京で再会した忠利ただとし)叔父から叱責されたそうだ。
 「駅員にしっかり確かめてから降ろしたんだから、絶対、大丈夫よ!」
 叔母はそう言い返したとか。
 「もし、あそこであんた(ぼく)を降ろしとらんかったら、お姉さん(母のこと)らはみんな満州で死んでいたんよ」
 戦後、岡山弁になった叔母の言う通りだったろう。
 その後の母とぼく、それに幼い弟3人を連れての逃避行を振り返れば、叔母の判断は正しかった。
 


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