第1章 満州国崩壊の序曲(15)

2005年07月08日 21:48

 磨刀石マトウセキ)に散華した石頭セキトウ)予備士官生たち

 八月十二日(日曜日)

 <十五時三十分、敵戦車二輌、掖河(エキカ)(牡丹江市の東方五㌔)地区進入、機砲五十門磨刀石マトウセキ)進出ノ報伝達サル〉

 第二新市街の秀子(父の妹)叔母の家で一夜を過ごした翌朝、郵政管理局に勤めていた叔母の夫、忠利ただとし)ら官舎の男たちは、火炎ビン用にサイダーまたはビールの空きびん2本と木銃を携行し、牡丹江市防衛に駆り出されて行った。
しんしがい  空きビンはガソリンを詰めて火炎ビンとし、対戦車攻撃用兵器として使うためのもの。昭和14年5月から9月にかけて「ノモンハン事件」の戦場で使われた原始的な兵器である。
 ノモンハンではソ連軍の戦車に対し、日本軍の対戦車砲はまったく役に立たない。そこで火器の貧しい日本側の一兵士が考え出したのが火炎ビンだった。
 当時のソ連の戦車はガソリンエンジンで、機関室は作戦行動中手がつけられないほど熱くなる。そこへ火炎ビンを投げつけると、たった1発でソ連戦車は炎上した。(『第二次大戦 殺人兵器』小橋良夫著、銀河出版)
 しかし、今は6年前と違いディーゼルエンジンを積載したT34型戦車が相手の近代戦である。火炎ビンごときで敵戦車に立ち向かっていくなど自殺行為に等しい。
 それを証明するのが、ソ満国境の磨刀石という知られざる戦場で散華していった学徒兵たちである。
侵攻するソ連軍 その学徒兵とは、関東軍石頭セキトウ)予備士官学校生徒(陸軍甲種幹部候補生)のことである。
 彼らの任務は、軍主力が撤退し後方に防御線を築きあげるまでの抵抗戦であり、また国境付近から避難して来る在留邦人が無事南下するまで、急追するソ連軍を阻止する身代わりの防波堤だった。
 その戦いは、大挙して南下して来たソ連赤軍の大機甲軍団に銃剣と手榴弾、そして手づくりの急造爆雷を抱えて敵戦車に体当たりで挑む死闘だった。
 ――肉弾学徒候補生が、爆雷を抱え自爆攻撃を加えるが敵戦車はビクともしない。
 停止した敵戦車は砲塔の下側から火炎放射機を噴射し、肉攻豪(タコつぼ)に潜む候補生をその焔と、歩兵のマンドリン銃(自動小銃)で掃討していった。
 ――平均年齢弱冠20歳の候補生920余名が戦場に出陣し、わずか2日間の戦闘でその大半が散華したのである。(南雅也著『われは銃火にまた死なず』泰流社)
(ソ連軍の写真は『戦記クラシックス 満州国の最期』太平洋研究会編 新人物往来社)


 関東軍参謀たちの論理

 それはともかく、ぼくは同級生の日高や石門子時代の志田さんら軍部の家族が避難したことを叔父や叔母に話していなかったようだ。
 後々の話だが、叔父は「君からそのことを聞いていたら、抗議して牡丹江防衛につくなどしなかったのに」と、悔しがっていた。
 いま思えば、あの志田さんの緊迫した表情から、深刻な状況がさし迫っていることを察知していなければならなかったのだ。
 ぼくには関東軍がよもや敗退しているなど想像できず、それ以上に軍が一般邦人を放置して撤退するなど思いも及ばないことだった。
 当時、関東軍作戦班長だった草地貞吾大佐は、『関東軍作戦参謀 草地貞吾回想録』(扶桑書房)の中で次のように述べている。
  ソ連参戦にあたっては、関東軍は作戦第一主義だった。(中略)なぜに居留民よりも速やかに後退したのか、それはただ一つ、作戦任務の要請であったと答えるばかりである。
 また、軍の家族を一般市民よりなぜ優先させたかについて、
草地 草地大佐は8月11日、新京で原善四郎中佐参謀から、「軍の家族が第1列車に乗り込み、本早朝出発しました」と報告を受ける。
 大佐は、「なぜ、一般市民の家族を優先しなかったのだ」と難詰すると、
 「まず一般市民を送り出したいものと、満州国政府側、居留民団関係に要求連絡したんですが、永年住みついた邦人というものはなかなか腰が重く、どうしても今晩などに乗車することはできないという回答――軍は仕方なく緊急集合容易な軍人、軍属の家族を輸送し、準備できるにしたがって一般市民や国策会社の社員等を循環輸送するようにした」  と、原中佐の答えが返ってきた。
(草地大佐の写真は『関東軍総司令部』楳本捨三著、経済往来社)


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