第1章 満州国崩壊の序曲(13)

2005年06月25日 10:09

 満航義勇飛行隊

 ソ連軍侵攻後も満州の大空を日本の飛行機が飛んでいた。
 元満州航空のパイロットだった下里猛(大正12年、1923年生まれ)著『満州航空最後の機長 空飛ぶ馭者』(並木書房)によると、
 ソ連軍満州侵攻前日の8月8日、下里氏と同僚のパイロットは新京からロッキード機を桂木斯(ヂャムス)に空輸し、その夜は同市の旅館に宿泊していた。
 翌朝、「今朝、ソ連機が突然空襲し、戦車部隊も国境を突破して進撃中だ!」と警察から知らされる。 隼
 満航の営業所員から「全員、飛行場へ集合」という桂木斯管区長の命令が伝達された。
 用意された会社のバスはフルスピードで飛行場に向かう。
 2階の乗務員室で、通信室から出てきた管区長は紙片を見ながら「君たちが持ってきたロッキードを直ちに新京に空輸せよという命令だ」
 前日、空輸してきたばかりのロッキードに乗り込み、多くの人々の激励と見送りを受けて出発する。
 まだ、この時点では敵の進撃はそんなに早いとは誰も考えていない。
 桂木斯管区の人たちは自分たちの撤退が、目前に迫っているとは誰も気づかなかった。
 むしろ、召集を受けたわれわれを心配して、女子社員まで出てきて手を振って励ましてくれた。
 2機は直ちに編隊を組んで進路を新京に向けた。
 来た時と違って、今度は索敵にも充分注意を払わなければならなかった。
 しかし、幸いなことに敵機と遭遇することもなく、無事に新京飛行場へ到着することができた。
 地上滑走ももどかしく格納庫まで機体を運び、機材係に引き渡すと、乗務員室へ駆け上がった。
 一刻の余裕もない中で義勇飛行隊は桂木斯、牡丹江の飛行場に残された社員救出作戦を開始した。
 救援機は桂木斯、牡丹江に疎開していた飛行機と新京、ハルピン管区の稼働可能なすべての機種を繰り出した。
 赤とんぼ その時、桂木斯飛行場に集結していた社員と家族は130人余りが不安におびえて救援をまっていた。
 救援機は松花江沿いに低空で桂木斯飛行場に侵入して着陸し、脱出計画通りに登乗者を乗せて直ちに離陸して、再び低空で松花江をさかのぼってハルピンへ行くのである。
 ハルピンで避難者を降ろして、再び桂木斯へ向かうピストン輸送をしたり、機種によっては新京まで直行するものもあった。
 ハルピンまでは約300㌔あまりであるから、AI機でも1時間、スーパーなら1時間半以上もかかる。
この作戦中、桂木斯飛行場では2度も敵機の銃撃を受けたが、いずれも退避して被害は僅少であった。  こうして幸運にも全員が桂木斯から脱出することができた。
 桂木斯救援作戦の最中に、1機未帰還という悲報が入った。
 満航隼機が双城堡付近で墜落炎上しているのを、帰還中の救援機が空中より発見したのである。
 大混乱の中では遺体の確認も真相究明もできないが、全員死亡は確実だろう。
 戦闘には無縁の女子どもの血潮まで満州の大地に流されたのである。

満州航空

(上の写真は『満州航空最後の機長 空飛ぶ馭者』並木書房)


ジャムス

(『別冊1億人の昭和史 日本植民地史[4]続 満洲』毎日新聞社)



 上海、8月11日の敗戦

  『堀田善衛 上海日記』によると、上海では、日本の敗戦は8月11日(土曜日)に来ていた。

 電車に乗ると、同盟の赤間氏が、「何だかとうとう来たようですね」と云う。氏は「未だ知りませんか?」  白日旗  「日本が降伏したと云ふんですよ」
 南京路は青天白日旗がずっと立ち並んでいる。
 「和平号外」なるものをポケットから持ち出して、みんなに配った。
 大意は「10日夜、東京のラジオ放送によれば、日本の天皇陛下は世界の平和を切に欲している」
なみいる日本人の僕らはみな暗い表情になった。
 この号外は、東京ラジオの英文短波とモスクワ電台の放送によるものらしかった。
 方々では爆竹が鳴り出した。
 ワァワァ云う声もしはじめた。
 戦闘帽に国防服、ゲートル姿の日本人たちは、何だか具合悪そうな表情で歩いている。


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