満州余話(最終回)

2008年06月26日 16:37

 二つの満洲

 ♪ここは御国を何百里 離れて遠き満洲の 赤い夕日に照らされて
 哀調を帯びた『戦友』の歌詞にある“満洲”と、満洲国の“満洲”には、かなりの距離感がある。
 それは歴史的、時間的変化に伴う距離感とでも言うのだろうか。
 これと似たことに、内地から送られてきた関東軍兵士と、内地を知らない満州育ちの少年とでも、満州に対する心象風景に温度差があるようだ。
 たびたび石門子を引き合いにだして恐縮だが、次のようなことからそう感ずるのである。
 “石門子では吾々(われわれ)軍人のみが生活していたのではない。部隊の外には常に不安な状況下で、軍と運命を共にしていた同胞がいた”
 これは、満州第1013部隊(野戦重砲部隊)の会報『石門子会』(昭和52年10月13日発行)に、「一少年と石門子」と題して紹介された記事の冒頭部分である内地から送られて来た兵士たちの満州は、お国を何百里も離れた異国である。
 だから、ひと山越えればソ連という国境の最前線に、一般邦人が住んでいようとは思いもよらなかったようだ。。
 ところが、ここで暮らしていた満州育ちの少年は、不安どころか至極のんびりと過ごしていた。なにしろ歩兵、野戦重砲、山砲の無敵関東軍3部隊が集結していたから、危機感など露ほども持ったことはなかった。
 一方、一般邦人と接する機会があった兵士は、営外勤務になる将校の当番兵とか、軍事郵便所(軍郵)へ郵便物の整理と受領に来る兵隊とか、ごく限られていたようだ。
(上の写真は『満州国と関東軍』人物往来社)
 休日の外出で営外に出ても、陸軍官舎の近辺や石門子部落には、娯楽施設や飲食店は皆無だから、兵士が足を向けることはなかったであろう。
 では、休日に外出許可を得た兵隊たちは、どのように過ごしていたのだろうか。先の会報『石門子会』に掲載された“聯段M”さんの「むしろ屋」と題した一文(抜粋)から、その一端をうかがうことができる。
 石門子の村はずれに、傾いて今にも崩れそうなアバラ家があった。その家では朝鮮料理とも中華料理とも区別できない料理を兵隊相手に食わしていた。
 30になるかならないかの料理人が主人らしかった。(略)妻君の方は大がらな美人であった。(略)料理の運び役に12か3くらいの少女がいた。
 この少女は実に綺麗(きれい)で辺鄙(へんぴ)な北の国境には、どうもふさわしくない。ところが(略)よく見ると此の少女の左目は、腐った牡蛎(かき)のように白く濁っていた。(略)
 「ギョーザ一つ」と注文すると「ゴザァヒタツ」と板場に通す。餃子がゴザと聞こえるので兵隊は面白半分に、茣蓙(ござ)は食べ飽きた筵(むしろ)をくれと言った。(略)退屈しのぎに言葉(日本語)の不自由な女の子を揶揄(からか)うつもりであった。
 ところが意外にも彼女は平気な顔をして「ムシロヒタアツ」と板場に通した。出鱈目(でたらめ)の注文をした兵隊の方が、こんどは慌ててしまった。やがてムシロなるものが湯気を立て、運ばれてきた。八宝菜と旨煮をまぜたようなもので、味もなかなかのものであった。(略)
 夏のはじめの頃、石門子部落にチフスが発生して外出止めとなった。引続いて夏季演習となり、待望の外出ができたのは涼風の立ち始めた頃であった。先ずムシロを食いに行こうと押しかけたら、家は無人となっていた。(略)
 このムシロ屋の家族は、その後我々の行動範囲内では姿を見なかった。あの家族はスパイで、憲兵に逮捕されたと言うことを聞いた。しかし真偽のほどは知るよしもない。
 只、ムシロ屋の位置は、ソ聯領三芬江の街並みが何の障害も無く、一望のうちに見通せる処にあった。

 恩師、三浦兵長のこと

 三浦兵長の所属する歩兵部隊は、中洲のある幅広い小烏蛇溝(しょううだこう)河をはさみ、軍郵の対岸の小高い山のふもとに展開していた。
 部隊の営門から対岸にかけて頑強な木製の橋がかかっていた。先生は登校日の朝には、橋を渡るとすぐ近くのぼくの家に立ち寄り、小烏蛇溝河沿いの土手道を2人連れ立って部落に向かうのが常だった。
 土手道の右手に沿って山砲部隊の鉄条網が張りめぐらされていたが、昭和18年の秋ごろに部隊は移動していて、営庭には兵士の影も山砲をけん引する軍馬のいななきを耳にすることもなかった。
 多数の軍馬がいた名残として、鉄条網に沿った外の溝に乾燥した馬糞がうず高く積まれ、年中、お灸のもぐさのようにくすぶり続けていた。
 その馬糞の臭気が漂う道すがら、こんな会話を交わしていた。
 日本軍のサイパン島玉砕が、新聞に報道された朝、アメリカ兵が戦死した日本兵の骨でペーパーナイフを作り、笑い顔で日本兵の頭蓋骨を並べもて遊んでいる残忍な姿が一面に大きく写真で報道されていた。
 先生も部隊で新聞に目を通したらしく、「この仇は必ず打ってやる!」と、この朝の2人は、鬼畜のごとき米兵に憤慨しながら歩いていた。
 砲兵中尉の兄がいまニューギニアで苦戦しているから、すぐにでも援軍に行きたいと、もどかしそうに話されていたこともあった。
 海兵を卒業したばかりの弟は、艦隊勤務で戦場に出ている。自分だけが満州で平穏な日々を送っていることに、悶もんとされている様子でもあった。
 「君たちに一度、長崎のカステラを食べさせてやりたいな」と言われたが、その長崎の実家は被爆し、すべて喪失しているかもしれない。

 離れて遠き“故郷”

 夕方近くなると、歩兵部隊の営庭から小烏蛇溝河を渡って、号令練習の掛け声や、軍歌演習の前唱と後唱が交互に聞こえて来た。
 「きょうつけ!」、「右へならえ!」
 この号令が、現地人の耳には「ギョーザケー(餃子くれ)!」、「ミンテン ナーライ(明日持ってこい)!」となるとか。これも聞きなしの一種か。
 ♪万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く「歩兵の本領」/♪日本男児と生まれ来て 戦さの場(にわ)に立つからは「戦陣訓の歌」/♪若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨「若鷲の歌」
 満ソ国境の夕日に照らされて、声高らかに流れてくる軍歌が、心なしか哀調を帯びて聞こえる。
 石門子に来たばかりのころ、母はここの風景を見て、内地に帰ったような気がすると言っていた。
 軍歌演習中の兵士たちも、夕日に染まった石門子の風景に遠く離れた郷里を思い、郷愁を呼び起こされていたのかもしれぬ。
 だが、内地を知らぬ満州育ちの少年には、離れて遠き満州こそが“御国”であった。あの日までは。
(軍歌演習の写真は『日本の戦歴』毎日新聞社)

『満州の記録―満映フィルムに写された満州』(集英社)


<あとがき>
 『満州「軍国少年」放浪記』は、最後の落としどころがうまくつかめず、予期しないほど長期にわたってしまいました。長い間、辛抱強く閲読いただいた皆様に感謝しています。
 最後の締めくくりに、餃子に関するわたしの独善的なうん蓄を、エッセイの形でまとめてみました。
 では、皆様お元気で、長らくお付き合い願いありがとうございました。



 図們の焼き餃子

 わたしが、初めて餃子を口にしたのは昭和14年(1939年)の5月、小学校1年生の時である。焼き餃子だった。
 場所は満州の図們(ともん)駅、朝鮮から鴨緑江(おうりょっこう)を超えて一つ目の駅になる。
 朝鮮の群山(くんさん)から、父の赴任先である満州の牡丹江へ渡る途次であった。
 図們駅には満州の税関があり、ここでは停車している客車に満系の税関吏が通関検査に立ち入って、お客の荷物を一つ一つ調べて回っていた。
 また、日本銀行や朝鮮銀行発行の通貨は満州でそのまま通用するが、その逆の場合は満州のお金を朝鮮の通貨に両替する必要がある。
 通貨の両替所は、この駅の管内にあったようだ。
 そんなこんなで、図們駅での停車時間は長い。
(図們駅『別冊1億人の昭和史[4]続満州』毎日新聞社)
 昼ごろだったろうか、母は列車の窓から駅弁の焼き餃子を一つ試し買いした。日ごろから俗っぽいことに好奇心を示すのが母の性分であった。
 母と兄とわたしの3人は、折箱の餃子をおそるおそる口に運んでみた。
ややあって、「これは美味しい」と3人はうなずき合った。
 母は飲食店などよそで味のいい料理に出くわすと、その味を覚えて帰り、家で早速試すところがあった。
 牡丹江にいたころ、どこで覚えて来たのか胡瓜のロシア漬けを作ったことがある。
 今でも岡山の叔母と会うと、「義姉(ねえ)さんが作った、あの胡瓜のロシア漬けは美味しかった」と語り草になる。
 ところがどういうわけか、満州にいたころ母が餃子を作ったという記憶はない。
 母が餃子を作るようになったのは、満州から引き揚げ後、昭和30年代に入ってからだと思う。
(図們鉄橋『別冊1億人の昭和史[1]朝鮮』毎日新聞社)
 敗戦後、ハルピンの中国人の鉄工所で覚えた作り方を忠実に守り、これが本場仕込みだと自慢していた。
 だから、テレビなどの料理番組で具材や味付け、作り方などが自分の方法と違うと「あれは本物の餃子じゃない。インチキよ」となる。
 中国人の餃子は、日本でいえば正月の雑煮と同じような位置づけだから、地方、地方によって違いがあって当たり前なのだが、母は頑として認めないのである。
 自分の親をひいき目で見ているわけではないが、お袋の餃子が美味かったのは確かであった。
 餃子には水餃子、蒸し餃子、焼き餃子の3種類の食べ方があるが、水餃子が最もごまかしにくい。大げさにいえば皮が生命なのだ。
 市販の薄っぺらな皮は論外だが、湯の中で溶けてしまうようでは水餃子にならない。
 母の存命中は、正月に帰省すると雑煮の代わりに、よく水餃子が出た。
 皮づくりには、かなりの手間と体力を要するようで、
 「もう、体がえらいけえ、今年で餃子を作るのは最後じゃ。あんたも、よかったら、いまのうちに覚えときんさい」
 わたしもその気でいたが、その前に友達の家に遊びに出かけ、ついつい遅くなってしまった。
 「あんたが、いつまでたっても帰って来んけえ、もう作ってしもうたわ」
 今になって、お袋の餃子作りを伝承するチャンスを逃したことを後悔している。
 ところで、日本人の多くが餃子を食べるようになったのは、いつごろからだろうか。
 近年は“手作り”とか“本場の”とか銘打った餃子が、日本全土に氾濫している。
 作家の陳舜臣さんが30年ほど前、「裏話」としてこんなコラムを書いている。
 香港は中国料理のメッカの一つであり、食べるだけのために行く日本人もいる。なにしろ日本人は、香港にとっては大切なお客様である。だから、わざわざ神戸から若手の中国人コックを「技術指導員」として香港へ呼び、日本人の舌にむくようアレンジした店の味が、日本人に歓迎される。
 お客様たちは舌鼓を打って、「おいしい、おいしい。さすがは本場の味だ」とご満悦である、と。

 市販の既製品の餃子はともかく、中華料理の専門店にしても、日本人向きにアレンジンしてあるのか、お袋に勝る餃子に巡り合ったことは、これまで一度もない。
 いまさらのように思う。もし、お袋の餃子づくりを伝承し、餃子屋でも始めていたら、今ごろは行列のできる有名な店になり、豪勢な餃子御殿に住んでいたかもしれないと。
 それはともかく、図們駅の焼き餃子の味はどうだったのか、もう一度、確かめてみたいと思うが、いまはかなわぬ夢である。


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