満州余話(5)

2008年06月20日 15:28

因果応報

 「軍関係者の顔は見るのもイヤだ!」
 軍の御用商人をしていた石門子の山下さんが、吐き捨てるように言ったという。
 敗戦後のハルピンの街で、母が偶然出会った時の話である。
 山下さんの話によると、ソ連軍侵攻の報が入ると軍関係者は軍用トラックに荷物まで積み、民間人は振り落として逃げた。
  置き去りにされた民間人たちは、自力で石門子を脱出したという。
 彼らの軍関係者に対する恨み骨髄に徹していたことだろう。
 母との立ち話はそこまでで、ほかの自力脱出者や当時の状況などにまで触れることなく別れたようだ。
 山下さんにすれば、軍関係者の家族である母も同類で、それ以上会話を交わす気になれなかったに違いない。
 しかし、民間人を振り払って逃げた人たちが、ソ連軍の襲撃や現地人の暴動を受けることなく無事に逃避できたかどうかはわからない。
 例えば、石門子憲兵分所長の長男で1年先輩だったSさん一家のことが思い浮かぶ。
 ソ連軍の侵攻がはじまって3日目だった。
 列車が不通で海林(はいりん)の家に帰ることができず、牡丹江駅で一夜を明かしたあと学校の寮に戻っていた。
 試案のすえ、とにかく牡丹江市内の叔母の家に寄ってみることにした。
 ソ連機が飛来した後だから、午後になっていたと思う。寮の玄関先に出ると、目の前に軍用トラックが1台目横づけになっていた。
 見ると、Sさんが同行の当番兵と一緒に布団袋など自分の荷物を懸命にトラックの荷台に積み込んでいるところだった。
 牡丹江の近くに転勤していた憲兵少尉の父親が、息子のために手回しよく寮までトラックと当番兵を差し向けたのだろう。
 トラックに近づくと、Sさんは緊迫した面持ちで「君! 何をぐずぐずしているんだ! 早く避難しないと、ここも危ないぜ!」
 そう言い残すと助手席に乗り込み、トラックは何ものかに追われているかのように猛スピードで走り去った。
 それから11年後、つまり昭和31年の暮れ。
 中国地方の新聞が、広島県福山市出身のS憲兵少尉がシベリアで11年間の抑留生活を終え、このたび帰国したと写真入りで大きく扱っていた。
 記事には、少尉に過ぎない下級将校が、将官たち上級将校と同じように最後までソ連に抑留されことについては、なにも触れていなかった。
 だが、11年もの長期わたり抑留されていたということは、戦前、かなりの重罪を犯していたと推測できる。
 石門子で隣の席の川崎さんが、「Sさんのお父さんは大嫌い!」と、ぼくに告げたことがある。
 S憲兵分所長は慰安所の臨検に来たついでに、自分の気に入ったものが見つかると、いつでも持ち去ってしまうのだという。
 約1年間、隣合わせの席だった彼女の口から、他人の悪口を聞いたのは、この時だけである。
 慰安所は憲兵の管轄下にあったとはいえ、職権を笠にさもしい行為を繰り返すS所長が、よほど腹立たしかったのだろう。
 だが、彼女は1級下にいた分所長の長女には、そのことをおくびにも出さなかった。
 新聞には、さらにS少尉の家族は避難の途中、暴民に襲われ妻とSさんを含む5人の子どもは全員死亡していた、とあった。
 これまで、妻子と一緒に暮らすことを唯一の励みに、厳しい抑留生活に耐えてきたが内地に帰還してみると、心の支えであった妻子はすでにこの世にいない。
 一体、これから何に生活の張りを求めていけばよいのか、悲嘆にくれたS少尉の談話が載っていた――これを因果応報というのだろうか。

(上の写真3枚は『満州の記録―満映フィルムに写された満州』集英社)


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