満州余話(3)

2008年05月28日 14:02

 同級生はピー屋の娘

 中国黒龍江省の石門子に「慰安婦」の墓がある。
 村から1??ほどの小さな山のなかにその墓はあった。
 山頂側の反対側に下った窪地(くぼち)に、雑草と枯れ木にまみれた円形の土まんじゅうがあった。
 何人もの朝鮮人慰安婦がここに眠っている。「慰安所」は暖房もなく、風邪をひいた少女たちは肺炎となり、結核にもなった。(『「従軍慰安婦」にされた少女たち』石川逸子著、岩波ジュニア新書より)

  ぼくが牡丹江から石門子の国民学校に転校したのは、5年生の2学期に入って間もない、昭和18年(1943年)の秋だった。
同級生は1人で川崎という女の子がいた。
 机が隣り合わせの彼女との、最初の会話は、
 「うちにはお姉さんが“たくさん”いるの」
 お姉さんがたくさんいるとは奇妙な家庭だな、と不思議に思っていると、
 「うちには兵隊さんたちが大勢遊びに来るの」
 早熟で世俗に富んだ子どもなら、それだけで彼女の家がどんな所(職業)であるか察しがついたかもしれない。
 世事にうとく鈍感なぼくは、ただポカンと聞き流していたが、それが当時の平均的な少年ではなかったろうか。
  大人たちの話題のなかで、「慰安所」という用語を聞くことはなかったが、“朝鮮ピー”とか“満ピー”といった言葉は耳にしていた。
 朝鮮人の慰安婦とか、満人の慰安婦を指している。
 語源は知らないが「ピー屋」という言葉のニュアンスに、なんとなくいかがわしい所であるらしいことは感じとれた。
 「けさ、お姉さんたちが大豆入りのご飯の豆だけよけて食べるので、うちのお父さんに“ゼイタクだ!”って叱られてた」
 昭和19年ごろの民間人の食糧事情は、一般的にどのような状態にあったかしらない。
 だが、彼女の話を聞いている限りでは、川崎家の食生活はそれほど貧しくなかったように感じとれた。
(上の写真2枚は『1億人の昭和史 [10] 不許可写真史』毎日新聞社)


 大黒さんの贈り物は“へちま水”

 川崎さんは自分の家の出来事を毎日、ぼくに話して聞かせてくれた。興味はないのだけれど。
 「軍事郵便所(父の勤務先)の人で、よく遊びに来る人がいて、お姉さんたちは“大黒さん”と呼んでいるわ」
 “大黒さん”と聞いただけで、とっさに思い浮かぶ独身者がいた。
 石門子のような国境のへき地には、飲食店や娯楽施設などは皆無だ。
 若い独身者が無聊(ぶりょう)を慰めるとしたら、ピー屋のようなところへ遊びにいくしかなかったのだろう。
 

(『石門子の地図』。元満州第1013部隊の島田幾夫氏が、戦友などから聞き取り作成)

 「へちま水をとってきてくれない」
 ある日、川崎さんに頼まれた。
 大黒さんが馴染(なじ)みのお姉さんに、贈り物として“へちま水”をサイダー瓶に詰めて持ってきたという。
 ほかのお姉さんたちが、それを見て川崎さんに頼んだらしい。
 ぼくが、大黒さんと同じ軍事郵便所の官舎に住んでいることを話していたからだろう。
  大黒さんは、官舎の誰だれ彼の区別なく家の軒先に竿を立ち並べていた。
 その竿に、へちまのつるが先の方まで育ったころ、彼がその茎を適当な長さに切ってサイダー瓶の口に挿し込んでいった。
 鼻歌まじりで、どこか浮き浮きしていたその時の様子は、へちま水のプレゼントと、それを受け取る彼女の喜ぶ姿を思い浮かべていたからだろう。
 へちま水のとり方など知らないが、川崎さんのたっての頼みに断りきれず、ぼくはしぶしぶ引き受けてしまった。
 それはいいのだが、大黒さんに教えを請うわけにもいかない。
 ともかく、彼のやりかたを真似て、すでに切られていた茎を、サイダー瓶に何本か挿し込んでみた。
 たまったサイダー瓶の液体を1本にまとめて、学校に持っていった翌日、
 「お姉さんは、これ、へちま水と違う。ただの水だと言ってたわ」
 川崎さんは渋い顔をして、ぼくにそう告げた。
 学校で渡したビンの中身は雨水だったらしい。
 それはそうだろう。大黒さんがへちま水をとった後だ。
 大黒さんがいつまでも残して置くわけはなかった。
 面目なさから、どう謝ろうかと迷っているうちに、彼女はケロッとした顔に戻っていた。



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