満州余話(2)

2008年05月20日 17:03

 勝鬨陣地の挺身斬込隊

 昭和20年(1945年)8月9日、石門子(せきもんし)の挺身大隊に、旅団司令部からの配属命令が下ったのは、午前7時ごろである。
 「筒井中隊は、ただちに勝鬨陣地、斉木部隊に配属すべし」
 この命令により挺身大隊第3中隊長、筒井厚士中尉は、部下の見習士官5名、兵330名を完全軍装させ、石門子の兵営を出発したのが午前11時だった。
 途中、敵の斥候に遭遇し、どこに進出しているかわからないソ連軍を警戒しながら、敵の激しい砲撃下にある勝鬨陣地に筒井中隊が到着したのは、日が沈みかけている午後7時過ぎだった。
 石門子から勝鬨までの距離はわずか8?である。1時間に1?の前進速度であった。
 勝鬨陣地650名の兵力が一挙に1000名になった。
 勝鬨本陣地の挺身斬込隊は筒井中尉のもと、命令一家いつでも出撃できるように待機していた。
 地下の陣地では、昼間は沈黙し、できるだけ睡眠をとるようにするのだが、なかなか眠れるものではない。
 自らを犠牲にする挺身隊の任務に、兵らは切羽つまって荒れがちである。
 「おい、みんなで歌おう。まず隊長から歌うぞ」
 長崎で女子師範学校の音楽教師をしていた筒井中尉のテノールは、よくとおる艶やかな声だった。兵たちは隊長の歌を聞くのが楽しみだった。
 決して軍歌は歌わない。『荒城の月』『故郷』ときには『桃太郎さん』など、幼き日の童謡や、心に染まった民謡をえらんで歌った。兵の顔はほころび、柔和な目になった。だれもが知っている歌を、できるだけ引き出すように中尉は心がけた。
 「こんどは自分が、郷里の民謡を歌います。聞いて下さい」
 「その次は俺がやるぞ」
 兵は競って、のど自慢を披露するようになった。この一瞬が、兵のこころのよりどころとなった。ときには猛烈な砲爆下のさなか、地中では歌声が朗々と響くこともあった。
 やがて、挺身斬込隊の出撃のチャンスが到来した。
 軍艦山付近に集結したソ連軍陣地に、敵が熟睡した深更を攻撃決行時として出発する。
 襲撃よりも、襲撃後の敵陣地離脱と敵の眼を掠めて、帰隊することの方がむずかしいのだ。
 挺身斬込隊は毎夜のように出撃していた。ソ連陣営に彼らはたびたび肉薄攻撃をかけては戦果をあげていた。
 これにともなって、当然、人員も消耗してゆく。すでに戦死、行方不明者は50名をこえていた。
 このまま戦闘がつづき、毎夜、斬り込みを敢行していると、筒井中隊336名は、1カ月以内に全滅することになりかねない。

(『最後の関東軍 勝ちどきの旗のもとに』佐藤和正著、白金書房)



 停戦命令受け入れ

 将兵の目の色が急に険悪になってきた。ニセ中佐参謀と思い込んだらしい。
 「あっ、河野参謀ではありませんか」
 「やあ、柳田じゃないか」
 ソ連軍の要請で、勝鬨陣地へ停戦命令の伝達に赴いた第3軍の河野参謀に、たった1人の顔見知りがいてくれた。
 第3軍からこの守備隊へ転属になっていた柳田祐主計見習士官だった。
 柳田見習士官の出番が、もうちょっと遅れていたら河野参謀は蜂の巣になっていたかもしれぬ。(『関東軍総司令部』楳本捨三著、経済往来社)
 偶然とはいえ、河野参謀を見知った見習士官がこの陣地に1人いたことは、全く天与の幸運と言うべきものであった。(元関東軍参謀・草地貞吾大佐)
 もし、河野参謀をソ連軍の謀略によるニセ軍使だと追い返したり、射殺したりしていれば、勝鬨の将兵も虎頭守備隊と同じ命運をたどっていたことであろう。(虎頭では、日本の無条件降伏を信用せず、停戦交渉を謀略として拒否、将校の1人が軍使の1人を惨殺する。結果、8月26日までソ連軍と破滅的な戦闘を戦うことになった)



  関東軍最後の斬込隊長健在ナリ

 「斬込隊長はいるか? いたら前に出ろ!」
 筒井中尉は覚悟した。ソ連将校の腰の拳銃が大きく目にとびこんできた。
 陽に焼けた、やせた顔の、鷹の目のような精悍なソ軍将校は少佐だった。
 このとき、予期しない奇妙なことが起こった。少佐は2、3歩近寄ると、ニッコリ笑いながら筒井中尉の肩を叩いて言った。
 「君は英雄(ゲロー)だ。すばらしい英雄だ。よくぞ戦った。ソ連は勇気を尊ぶ。(中略)君は勇気をもって、わがソ連軍を悩ましてきた。われわれは、英雄を尊敬する!」
 午後5時ころになると、ソ連側からつぎのような指示が出された。
 「いまから列車の通っている金蒼まで行軍し、日本に帰還する」
 6時過ぎ、太陽が軍艦山にかかろうとするころ、部隊は第1日目の宿泊地である石門子の兵営に向かって行軍を開始した。
 山を下りた部隊は、黒い一団となって石門子への道路上にさしかかった。彼らは、自分たちが踏み出す一歩一歩が、確実に故国に向かって近づいていることを感じていた。
 5日間の行軍のあとには、日本に向かう列車に乗っているのだ。そう思うと、彼らの足どりは軽く、そして力強かった。
 だが、故国への道と信じて歩きつづける将兵の前途には、暗く冷たい、過酷なシベリアの抑留地が待っていたのである。(『最後の関東軍 勝ちどきの旗のもとに』佐藤和正著、白金書房)

(読売新聞「編集手帳」2001年(平成13年)8月7日)
 1945年8月、Iさんは関東軍国境守備隊の中尉として満州にいた。侵入した旧ソ連軍に対し夜陰にまぎれては敵陣を襲う切り込み隊長でもあった。
 捕虜となり2年余の抑留生活を送った。I中隊336人のうち戦死者83人を含む200人以上が祖国に帰れなかった。過酷な状況下、Iさんの「荒城の月」や「箱根八里」の絶唱が戦友を勇気づけた。(中略)
 長崎県師範学校出身で、特に音楽を学んだわけではない。だが、この体験が戦後、「歌を通した人間教育」を生涯の仕事とする機縁となる。
 東京芸大の声楽科を卒業し、スタートは全国の学校を巡回する創作オペラなどの公演活動だった。81歳の今も幼稚園や小中学校での出張授業で忙しい。160?足らずの体に生気があふれる。(後略)

 この「編集手帳」に紹介されたIさんは、『最後の関東軍』に登場する筒井厚士中尉と符合する。早速、編集手帳子に手紙で問い合わせた。すると間もなく、Iさんから次のような手紙をいただいた。

  Iさんからの手紙(主文のみ)
 「最後の関東軍」に出てくる筒井厚士中尉とは私自身のことです。実はあなたが学ばれた石門子国民学校が存在する石門子の108部隊(長崎県大村市にある西部第47部隊~歩兵第46聯隊)に入隊し、直ちに108部隊で国境野戦部隊兵士になり、それから将校になり国境での戦闘になったのです。
 三浦先生(石門子国民学校の担任)も長崎県師範学校出身ですね。
 東寧地域はなつかしいです。5年間軍人として生活したからです。
 それから斬込みの中隊長として勝鬨陣地で8月9日から26日(終戦のことも知らず陣地の守備に明け暮れた毎日でした)まで戦闘し、あとは捕虜生活(ソビエト領土に2年3ヶ月)でした。
 東京で暮らし、1年の1⁄3は全国を旅し、21世紀に生き抜いて下さいと祈念しながら「人間根っ子教育」の実践をしています。(2001年10月10日)                        


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