第1章 満州国崩壊の序曲(12)

2005年06月23日 10:07

 拉古組みと別れ寮に戻る
 
 〈昼夜ヲ問ワズ、満鮮系不逞徒輩ノ蠢動著シキモノアリ〉

 校庭で事務職員の男が1人、黙々と書類の束を炎のなかにくべていた。
 夏の陽ざしのなかで書類のページが炎でめくられていく。
 めらめらと紙が燃え上がるさまを、しばらくぼう然と眺めていた。
 すると昨夜来の異変続きが頭の中を去来した。
 おぼろげながら、自分の身近にも事態の変化が忍び寄ろうとしている不吉な予感に襲われた。
 だが、その不安がどのような形で自分の前に表れてくるのか想像する力はなかった。
 「きょうは、授業はないそうだ」
 職員室から戻った2年生の報告を受けると、
 「これからどうしよう?」、迷い迷い学校を出た。
 歩いているうちに、斉藤が「家まで歩いて帰ろう」と言い出した。
 拉古ラコまでは山を一つ越えるとすぐで、以前に歩いて帰ったことがあるという。
 拉古組みの2年生と坂本もそれに同意した。
 海林ハイリンはそれより一駅向こうだ。
 歩いて帰るのは無理だろうから、ともかく元営林署の寮へもどってみることにした。
 拉古の3人とそこで別れたが、彼らが家に無事たどり着けたかどうか、その後の消息は知らない。
 山を越える途中、暴漢に襲われはしなかったろうか。
 あるいは、官舎に帰り着いたものの、すでに全員避難した後だった、ということもあり得る。家がハルピン近郊の平房だった同級生のSは、家に着くのが30分遅かったら、家族らの避難に間に合わなかったという。 


寮地図

(上の地図は『星輝中学校同窓会誌』、満尾文雄著「牡丹江時代の思い出」より)


 ソ機のスピードに驚嘆

 〈午後四時市内ニ爆撃並ビニ機銃掃射アリ、校舎、職員、生徒ニ異常ナシ〉

 急降下 寮に戻ると、室には家に帰れない国境付近の1年生が、まだ大勢残っていた。
 授業は中止で戦闘訓練もない。
 みな手持ちぶさたで、めいめい勝手なことをやって時間をつぶしていた。
 「牡丹江市の防衛につくことになった」
 と、木銃を手に意気込んでいる奴もいる。
 「あっ! 飛行機だ!」  
  だれかの叫び声で、みないっせいに窓際に駆け寄った。(右の写真は、ドイツ空軍の急降下爆撃機『20世紀の歴史(15)第二次世界大戦[上]』(平凡社)
〝キーン〟
 天井を圧するような爆音を残し、ソ連の戦闘機がアッという間に飛び去った。
 「あの金属音は、ドイツ映画で見た『急降下爆撃機』の爆音そっくりだ。あんな速い飛行機がソ連にあるわけがない。きっとドイツから分捕った戦闘機だろう」
 われわれは、お互いの顔を見合わせながらそう言い合った。
 牡丹江市の上空では、複葉の赤トンボ(練習機)すら見かけなくなって久しい。
 最新鋭の戦闘機のスピードがどんなものか、だれも見当がつかなかったが、ともかくソ連の技術力を低く評価したかった。
 とはいえ、あのソ連機の速さは、われわれを驚嘆させるに充分だった。
 『一九四五年 満洲進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』[徐焔(シユ・イェン)著、朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳]三五館)によると、
 当時のソ連軍の主力戦闘機ラー5型、ラー7型は時速650㌔以上。
 日本陸軍の主力戦闘機は飛燕型で時速590㌔、疾風型で624㌔である。
 ソ連機に比べ時速で劣るだけでなく、これらの新鋭機は満洲には配備されていなかった。

ソ機2     ソ機
(上のソビエト機は『[図解]世界の軍用機史 イラスト・解説=野原 茂』(グリーンアロー出版)

 

 夕方近くなって、市内の第二新市街に住む秀子叔母(父の妹)の家に寄ってみようと思い立った。
 玄関まで出ると、軍用トラックが1台横づけになっている。
 旧知の志田さんが同行の当番兵と一緒に自分の荷物を荷台に積み込んでいるところだった。
 2年ほど前、父の転勤で東寧から南に下った〝石門子〟に住んでいたころ、そこの国民学校の1級上に彼がいた。
 ぼくが在校生代表で送辞を、彼が卒業生代表で答辞を交わした間柄である。
 6年生は彼1人、5年生は2人いたが1人は女の子だったから必然的にそうなった。
 星輝中学に入学以来、お互い顔を合わす機会がなく、この時が初めてだった。
 どういうわけか、それまで学校や寮で、彼とすれ違うことすらなかったからである。
 彼の父君は石門子憲兵分所長だったころは准尉だったが、少尉に進級し牡丹江近辺に転属となっていたようだ。
 長男のわが息子のため、寮までトラックと当番兵を差し向けたのだろう。
 ぼくがトラックに近づくと、
 「徳広君! 何をぐずぐずしているんだ! 早く避難しないと、ここも危ないぜ!」
 いつになく緊迫した表情で、そう言い残すと、トラックの助手席にあわただしく乗り込んだ。
 彼を乗せたトラックは、何ものかに追われているかのようなスピードで走り去った。
 ぼくは呆然と、それを見送った。
 それが彼を見た最後の姿だった。
 後日談だが、彼の父はシベリアで11年間の抑留生活を終え、昭和31年暮れに広島県福山市に帰国している。
 そのことを中国地方の新聞が写真入りで大きく取り扱っていた。
 同紙によると、彼らの家族は避難の途中、暴民に襲われ、彼と母親、ぼくより1学年下だった妹、それに弟2人を含む全員が死亡したとあった。
 妻子と一緒に生活することができる日を唯一の励みに、厳しい抑留生活を耐えてきたのに、刑を終えて内地に復員してみると、心の支えであったその妻子はすでにこの世にいない。
 一体これから何に生活の張りを求めていけばよいのか、志田さんの父君の悲嘆にくれた談話が載っていた。


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