第9部 技能者養成所(最終回)

2008年04月28日 19:43

 美空ひばりファンHとの交友

  申し合わせたいたわけでもないが、呉線で通っていた同級生のHが同じ日に、隣の部屋に入寮していた。
 Hは製缶工場の所属で職種も異なっていたし、通学路線も山陽本線のわたしと違うので、ほとんど交友はなかった。
 それが寮生活をともにするようになると、妙にウマが合い、すぐ親密になった。
 寮では先輩たちの間で“夜光虫”という言葉がはやっていた。
 夜になると気もそぞろ、ふらっと街へ出かける輩(やから)の呼称である。
 Hとわたしも、この寮の雰囲気になんの抵抗もなく感化されていった。
 用倉から通っていたころの緊張感が解け、糸の切れた凧のようにふわっとした状態になっていた。
 2人は、寮で夕食を終えると白い鼻緒の高下駄をはいて町をぶらぶらし、手持ちの金の都合で映画館に入ったりした。
  昭和24年は、美空ひばりが『悲しき口笛』のレコードと映画が爆発的な人気を呼び、スター街道を走るきっかけとなった年である。
 Hは早くから美空ひばりのファンであった。
 わたしの場合は、近江敏郎と奈良光江の『悲しき竹笛』は聞きなれていたが、『悲しい口笛』はまぎらわしい題名という印象しかなく、美空ひばりの名前もしらなかった。
 その年の年末、三原市内の映画館で“ひばりの公演”が上演されることになった。
 あいにく当日は平日だったが、彼は会社を休んででも見に行くと決めていた。
 気のよいHには、わたしもたびたび付き合ってもらっていた。
 「義を見てせざるは勇なきなり」(?)
 友情に厚いわたしは、迷うことなく入場券を買っていた。

(上の写真と表は『昭和 2万日の全記録』講談社)


 終戦以来、民主主義の波に乗って全国津々浦々まで風靡(ふうび)しつつあるダンスの流行は、恐ろしいくらいで(中略)、職場ダンスをやらぬ会社工場はないという有様。(『人情』昭和23年7月号)
 わが寮でもご多分にもれず、夜になると食堂(だったと思う)が片づけられ、ダンスホールに早変わりした。
 三原市には帝國人造絹糸(現帝人)とか東洋繊維という大きな繊維工場があり、これらの工場の若い女性たちがダンスを踊りに集まってきたようだ。
 寮にはこうしたナンパもいたが、夜間高校に通っているまじめな先輩もいる。
 三原市在住の同級生の多くも、入社して間もなく県立三原高校の定時制夜間部に通い始めている。
 三菱の養成所を卒業しても高卒の資格はもらえないからだ。
 付和雷同型のわたしも、Hといっしょに翌年4月から同校の夜間部に入った。
 これで怠惰な寮生活に終止符を打った、と言いたいところだが、そうはいかないから情けない。
 夜間のはじめごろの授業は、養成工の復習のようなものだったので、ついついさぼり癖がついてしまった。
 Hと見た映画の本数を競い合ったりしていたものだから、出席日数をクリアするのに汲々とするありさまだった。  (職場のダンス『カストリの時代』ピエ・ブックス)

 わたしが昭和28年に名古屋へ転勤した後、父母は三原市で小さなふとん店を始めた。
 それ以来、同地が父母と弟たち一家の終の棲家となった。
 黄泉(よみ)の国からのお迎えは、満州から引き揚げた順に訪れた。
 父は昭和60年、兄は同63年、母は平成11年だった。弟とわたしのところへは、いまのところ順番が来ていない。


   [あとがきに代えて]

 今回で『満洲「軍国少年」放浪記』を終了します。
 記憶違いや勝手な思い込みが多々あることは承知のうえで、これまでつづってきました。
 記憶を確かめたくても、すでに他界した人が多く、会えても記憶が薄れ話の要領を得ないもどかしさと、取材の稚拙さを痛感しました。
 そのような、つたない手記を閲覧者のみなさまには大変長期間、おつき合い願いましてありがとうございました。
 なお、敗戦前の満州のことで2,3書き留めておきたいことがありますので、このあと『満洲余話』という形でつづってみたいと思っています。
 どうぞよろしくお願いします。



【呉線と進駐軍列車】

  養成工にも学年対抗の野球大会があった。 
そのころ呉線で通学していたHらは、打者に「あっちのショートは呉線じゃけん、ゴロばあぁ転がしときゃええんど!」、相手がトンネルすると「呉線!」と野次っていた。
 その心は「トンネルが多い」からだそうだ。
 実際、呉線はトンネルが多いのかどうかは別として、当時、米軍の進駐軍列車は呉線を走っていた。
 呉線は、呉市を通り、瀬戸内海沿いに三原市と広島市を結ぶ、全線単線の国鉄線である。  (進駐軍列車の写真は『ドキュメント 占領の秋 1945』藤原書店)
 一般の人は、特別な事情がないかぎり三原―広島間は山陽本線を利用する。
   山陽本線だと区間の距離は71.4?だが、呉線は93.4?と、22?も遠回りになる。
 所要時間は現在でも山陽本線は普通列車で1時間10分、呉線経由だと2時20分もかかるからだ。
 それでも、進駐軍列車が呉線を利用していたのは、沿線の風光が明媚(めいび)であったからだという。
 戦前、戦中は、軍港都市呉市を中心に沿線には軍事施設が多く存在し、要塞地帯に指定されていたので、海側のよろい窓を下し、軍艦が見えないように命じられたという。
 敗戦までの日本人は、美しい瀬戸内海の風景を車窓から眺めることはできなかったのである。    (竹原付近の写真は『岩波写真文庫 広島県―新風土記』)


【F-86Fジェット戦闘機のライセンス生産】

  F-86Fジェット戦闘機は1947年(昭和22年)に初飛行、米国をはじめ世界26カ国で採用され約4000機近くが生産された名機である。
 同機の特徴は主翼、尾翼ともに後退角35度の後退翼で、速度性能をはじめ性能全般にわたって極めて高性能の機種であった。(中略)また高速発射速度の12.7?M-3機銃6丁と、そのほか航法、無線装置等を装備し、1948年(昭和23年)当時としては世界最優秀の戦闘能力を持っていた。
 防衛庁から当社(三菱重工)が主契約者に指名され、1955年(昭和30年)8月、ノースアメリカン社とライセンス契約を結び、1号機を1956年(昭和31年)9月20日に納入。
 300号機を1961年(昭和36年)2月25日、計画どおり防衛庁に無事完納した。(『三菱重工 名古屋航空機製作所25年史』より)


【悲運のロケット戦闘機「秋水」】

  日本海軍のロケット戦闘機「秋水」は、ドイツ航空省より受領したMe-163Bロケット戦闘機の資料を参考に試作された第1号機である。
 1944年(昭和19年)7月7日、同機の初飛行は海軍の追浜基地で実施されたが、高度350?付近でエンジンが急に停止し、地上に墜落した。
 テスト・パイロットの犬塚豊彦大尉は殉職。
 その後、第2号機の製作にかかるが、米空軍の日本本土空襲が激しくなり、終戦によって未完成に終った。(『三菱航空エンジン史 1915~1945』三樹書房より)


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